関戸村(読み)せきどむら

日本歴史地名大系 「関戸村」の解説

関戸村
せきどむら

[現在地名]和歌山市関戸一―五丁目・西高松にしたかまつ一―二丁目・まつおか一丁目・新高にいたか町・西浜にしはま一丁目・塩屋しおや六丁目・和歌川わかがわ町・和歌浦西わかうらにし一丁目・今福いまふく二丁目・堀止西ほりどめにし二丁目

海部あま郡に属し、宇須うず村・塩屋村の西に位置する。北は和歌山城下に続き、南は和歌村に至る南北に狭長な村である。西は西浜村。中心集落は南方権現ごんげん山の北にあり、北部に小名高松の集落がある。

「続風土記」は「関戸古は雑賀村といふ矢宮棟札、古人雑賀野といひしも此地なるへし、是より西浜村に通して古人或は野といひ或は浦といふ、皆雑賀の地にして広くは吹上ともいへるなり、関戸は井関所の義なり、村の巽の方和歌浦の界、土地卑下なり、おもふに古は和歌浦の方より潮の入り来る所なれは堰を設け塩を防しならん、元和の頃まて和歌浦の入海関戸村の界まて入り来れり、後其地皆田畑となれとも今も猶細き溝渠ありて満潮には界まても潮入来れり」と述べ、また「天正以前雑賀孫市和歌に居城を築きし時は、当村の内矢宮の東の辺にて城下の地にして人家立並ひ市なりしといふ、今若山本町一町目の東雑賀町は此地の人家を移しゝ故の名なりといへり」と記す。

関戸村
せきどむら

[現在地名]多摩市関戸一―六丁目・関戸・桜ヶ丘さくらがおか一―四丁目・聖ヶ丘ひじりがおか一―五丁目・諏訪すわ一―六丁目・東寺方ひがしてらがた

連光寺れんこうじ村の西、多摩川南岸にある。北西は一ノ宮いちのみや村。西方は丘陵だが平地が多く、陸田が開けていた。妙本寺本「曾我物語」巻五などにみえる関戸宿の遺称地。南東の小名本村ほんむらには中世、八王子から小野路おのじ(現町田市)を経て相模国へ向かう道が通り、東の小名宿平しゆくひらには宿駅があったという(風土記稿)。天正一九年(一五九一)、山角牛太郎定吉は多摩郡内で一千五〇石の地を与えられた(寛政重修諸家譜)。この山角知行地は関戸郷一千五〇石とされる(風土記稿)。田園簿では関戸村は田二一一石余・畑九六石余。

関戸村
せきどむら

[現在地名]岩国市大字関戸全域と岩国五丁目の一部

岩国城下横山よこやまの北ににしき川を挟んで位置する。山陽道が小瀬おぜ川を越えて周防国に入り、南西に進んで錦川左岸に出た所にあり、周防最初の宿場である。

村名は安芸国境の関所と関係のある地名と思われるが、文献に現れるのは遅く、嘉吉二年(一四四二)二月二〇日付大内教弘の毛利元秀宛書状(「閥閲録」所収厚母七郎兵衛家文書)に「此辺にも城をあまた取候、右田岳も執候て屏手合候、関戸・山代・高水にも城を取候」とみえる。

村内の小名にはいち市の後いちのせど迫の内さこのうち・西の谷口・大内迫おおちざこいけさこなどがある。市と称したのが宿場の指定地区で、寛永三年(一六二六)には街道沿いに長さ二町一三間、家数三〇軒(うち三軒が客屋敷)があった。

関戸村
せきどむら

[現在地名]総和町関戸

小堤こつつみ村の南方に所在。東は長井戸ながいど(現在は水田)西枝、西は釈迦しやか(現在は水田)、南と北は台地。西北部は広大な平地林であったが、現在は丘里おかさと工業団地となっている。長井戸沼を望む台地上の字金糞かなくそには縄文土器片を包蔵する金糞A遺跡があり、金糞B遺跡からは鉄屑が出土。字蔵王ぞうおうの蔵王遺跡は古墳時代の遺跡。諸川もろかわ(現三和町)から上大野かみおおの村を経て当村へ通ずる道を鎌倉街道と称し、「古河志」によれば延文三年(一三五八)建立と伝える了覚りようかく(廃寺)大檀那は関東公方足利基氏。

関戸村
せきどむら

[現在地名]干潟町関戸

溝原みぞわら村の南の低地部に位置し、寛文期(一六六一―七三)からの椿つばき海の新田開発によって成立。下総台地の下を惣堀がめぐらされ、それに沿う道沿いに人家が集まっている。元禄八年(一六九五)検地帳(海上町史)には当村は溝原村下椿新田と記され、田畑屋敷合せて高四七六石余・反別六一町二反余が打出され、うち上田七反余・中田一町二反余・下田九町一反余・下々田九町三反余・悪地下々田二四町八反余、下畑九反余・下々畑二町三反余、葭間一〇町九反余・屋敷五反余、ほかに砂間八町余と除地として弁才天社地があった。

関戸村
せきどむら

[現在地名]成田市関戸

東金山ひがしかなやま村の西に位置。南端で取香とつこう川が根木名ねこな川に合流する。西は根木名川を境に土屋つちや村。寛文二年(一六六二)の三宮社領田地之事(下金山区有文書)に村名がみえる。「寛文朱印留」では佐倉藩領で以後変わらず。元禄郷帳では高一一九石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によると、小物成として夫役永三四四文・茶園栗代永五九文があった。旧高旧領取調帳は佐倉藩領(一一九石余)のほか、和関わせき新田の一部であった幕府領四石余を記載。

関戸村
せきどむら

[現在地名]笠間市福原ふくはら

稲田いなだ川左岸、ぐし峰の東麓にあり、東は上稲田かみいなだ村。中世は福原氏の支配下にあり、江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高五四七・三九八石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて一九石余を打出す。村には溜池二、村山三、野山四などがあり、字竹下たけしたに御蔵がある。売物は米・薪。延享四年(一七四七)の戸数六八・人数三三六、馬三〇。弘化三年(一八四六)の笠間領内人別調(来栖家文書)によれば、戸数四九・人数二〇八、馬二三。生活状況は上一、中二三、下一九、下々一、極窮二、その他三であった。

関戸村
せきどむら

[現在地名]和歌山市和佐関戸わさせきど

名草なくさ郡に属し、紀ノ川南岸高積たかつみ山北西麓にあり、くち村の東に位置する。小名に出島でじま小松原こまつばらがある。正平一六年(一三六一)九月二〇日の平範重垣内寄進状案(歓喜寺文書)に「紀伊国名草郡和佐庄字関戸村惣追捕使方」とみえる。

関戸村
せきどむら

[現在地名]笠岡市関戸

吉田よしだ村の北にあり、東は尾坂おさか村。元和元年(一六一五)以降摂津麻田藩領となったと考えられる。慶長二年(一五九七)名寄帳(戸川文書)では小田おだ郡に属し、高二三二石余・新開高七斗六升。同一二年分の山口村・関戸村納米払帳(岸本文書)によれば、当村の納米一三石余・口米三斗九升余で、両村からの徴収米の多くが大坂蔵入となっている。

関戸村
せきどむら

[現在地名]大宇陀町大字関戸

松山まつやま町から吉野郡に南下する街道の要所に立地する。関戸峠がある。関戸は関所の所在を示す地名。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報