間島村(読み)まじまむら

日本歴史地名大系 「間島村」の解説

間島村
まじまむら

[現在地名]羽島市福寿町間島ふくじゆちようまじま

たけはな村・本郷ほんごう村の北方、長良川とぎやく川の落合に位置する桑原くわばら輪中内の村。「濃州徇行記」に「村北に逆川の堤竹ケ鼻の方へ遶れり、村落は其逆川の堤傍にあり、東西に長き村也、農業を専すぎわいとし又油屋紺屋、菅大臣島織屋などもあり」と記される。天正一七年(一五八九)一一月一四日の浅野長政石田三成連署所領充行目録(伊木文書)に「ましま」がみえ、二二二石余が伊木忠次に宛行われている。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)にも地名がみえる。慶長郷帳では高二三〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では稲葉正成(十七条藩)領。同五年尾張藩領となり(明暦覚書)幕末に至る。

間島村
まじまむら

[現在地名]各務原市神置町かみおきちようなど

羽栗はぐり郡に属し、北は成清なるきよ村、東は下中屋しもなかや村、南を木曾川が限る。枝郷石田いしだ村がある(明治大学刑事博物館本元禄郷帳)。現愛知県犬山市の本竜ほんりゆう寺蔵の文明一三年(一四八一)五月二七日銘をもつ絵像裏書にみえる「尾張国葉栗郡本庄郷真嶋」は当地のことであろうか。慶長郷帳に村名がみえ、各務かかみ郡と記され、高九一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では羽栗郡に属する。慶長六年(一六〇一)旗本坪内本家領となり、幕末に至る(各務原市史)正保郷帳では田高三石余・畑高四石余、八二石余は無地

間島村
まじまむら

[現在地名]村上市間島

能化のうけ(三八〇・五メートル)西麓にあり、西は日本海に臨む。北はおお川を境に柏尾かしお村、南はさかい川を境に野潟のがた村に接する。出羽へ抜ける浜通が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「間嶋村 中」とみえ、本納五一石二斗三升二合・縄高五三石九升、家六軒とある。正保国絵図では高八九石余。天明三年(一七八三)の村上領諸事書留(大滝正輔氏蔵)によれば、家数五六・人数三五三、牛二、小物成に浜役・鮭川役・指網役がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報