精選版 日本国語大辞典 「浅野長政」の意味・読み・例文・類語
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(小和田哲男)
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安土桃山時代の武将。初名長吉。弾正少弼。初め安井氏。浅野長勝の養子となり織田信長に仕えて羽柴(豊臣)秀吉に付属され,秀吉の大名化とともに領知を増し,1580年(天正8)播磨揖東郡で4600石,その後しばしば加増,秀吉の政権獲得後の83年には京都の奉行となり近江坂本で2万0300石,そしてこれ以後豊臣氏蔵入地の代官を兼ね,87年若狭一国,93年(文禄2)甲斐一国を領し,宇都宮国綱,伊達政宗などを与力とした。1590年小田原征伐では岩槻など後北条氏の支城を攻め,奥羽を検地,92年には肥前名護屋の陣営で秀吉の朝鮮渡海を諫止した。そして秀吉の晩年には秀頼擁護のため五奉行の一員となったが,秀吉没後徳川家康と石田三成との政争に際し,三成らに謀られて失脚,武蔵府中に蟄居(ちつきよ)し,1606年(慶長11)常陸のうちで5万石を与えられた。長政は姻戚出身の奉行として豊臣氏に信任されたが,その立場は前田利家や徳川家康に近く,石田三成や増田長盛らの集権化を志向する吏僚とは異なっていた。
執筆者:岩沢 愿彦
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安土(あづち)桃山時代の武将。初名長吉(ながよし)(1598年8月から1599年閏(うるう)3月の間に長政と改名)、実父安井重継(しげつぐ)、母は浅野長詮(ながあきら)の女(むすめ)という。尾張(おわり)国(愛知県)春日井(かすがい)郡北野で生まれる。織田信長の弓衆浅野長勝の養子。長勝養女で後の豊臣(とよとみ)秀吉夫人杉原(すぎはら)氏ね(俗称ねね)とは義姉弟。信長に仕え、のち秀吉に属し、各地に転戦。また奉行(ぶぎょう)として兵糧、蔵米(くらまい)のことをつかさどり、1582年(天正10)8月、杉原家次とともに京都奉行。1583年近江(おうみ)大津、坂本両城で2万0300石、1587年若狭小浜(わかさおばま)城主。文禄(ぶんろく)の役に軍監として渡海、1593年(文禄2)甲斐(かい)(山梨県)22万石に移封、翌年五奉行の一人となる。関ヶ原の戦いには東軍方に参加。江戸にて没し、高野山悉地院(こうやさんしっちいん)に葬送された。法号は功山道忠伝正院。
[奥野高広]
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1547~1611.4.7
織豊期の武将。尾張国春日井の安井重継の子。通称は弥兵衛尉。初名は長吉(ながよし)。弾正少弼。伯父浅野長勝の養子となり織田信長に仕える。1573年(天正元)以来豊臣秀吉麾下として勢力を伸張し,奉行として検地・軍事などを担った。93年(文禄2)甲斐国22万5000石(1万石は公領)を子の幸長(よしなが)とともに得たが,関白秀次事件の影響で一時政治の中枢から離れた。98年(慶長3)五奉行の1人となったが,翌年引退。関ケ原の戦では東軍に属した。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以,浅野長政,増田(ました)長盛,石田三成,長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…
※「浅野長政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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