長松村(読み)ながまつむら

日本歴史地名大系 「長松村」の解説

長松村
ながまつむら

[現在地名]姫路市大津区長松おおつくながまつ大津区大津町おおつくおおつちよう四丁目・大津区恵美酒町おおつくえびすまち二丁目・大津区新町おおつくしんまち一―二丁目・大津区天神町おおつくてんじんまち二丁目

天満てんま村の西に位置し、西は西汐入にししおいり川を挟んで平松ひらまつ村。揖東いつとう郡に属する。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に長松村とみえ、当村の三二八石余などが木下家定に宛行われている。慶長国絵図にも村名がみえる。領主変遷天満村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高六三三石余、高五二三石余。

長松村
ながまつむら

[現在地名]小郡市二森ふたもり

宝満ほうまん川下流左岸に位置し、北は同川を挟んで大崎おおざき村・寺福童てらふくどう村、南は上西鰺坂かみにしあじさか村に接する。古くは東の用丸もちまる村を東森ひがしもりとよび、当村を西森と称したという(小郡市史)。建仁元年(一二〇一)河南郡「永松」の一町三反などに高良こうら(現久留米市)温父社一宇の造営役が賦課された(高良宮造営田数注文)。永仁四年(一二九六)永松・稲吉いなよし大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の五月会流鏑馬役を奉仕するよう定められた(同年一二月日「玉垂宮大善寺神事注文写」隈家文書/鎌倉遺文二五)

長松村
ながまつむら

[現在地名]大垣市長松町・新長松しんながまつ

大谷おおたに川右岸に位置し、北は矢道やみち村。村内を美濃路が通り、枝郷小寺こでら新田しんでんがある。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)に給人方として「弐百疋 河崎之内国分・長松 稲葉土佐」とみえる。同年間には長松城主竹中源助の所領となり、その後、武光式部忠棟の領地となり、忠棟は慶長四年(一五九九)当地で五千石を領した(「諸大名・旗本分限帳」内閣文庫蔵)

長松村
ながまつむら

[現在地名]六日町永松ながまつ

五十沢いかさわ川最上流右岸の集落。京岡きようおか新田の南東、南は金城きんじよう山、東の対岸蛭窪ひるくぼ村、北の対岸ははら村。正保国絵図に村名がみえる。天和三年郷帳では高一〇四石七斗余。宝暦五年(一七五五)村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田六町余・畑四町一反余、家数二九、男八二・女六二、馬一五。字欠之上かけのうえに真言宗智山派正法しようほう寺がある。本尊観世音。空海が初めて草庵を結んだとの伝承がある。

長松村
ながまつむら

[現在地名]神林村長松

日本海沿いに南北に延びる砂丘東側にあり、北は新保しんぼ村、南は福田ふくだ村、北東は田中たなか村に接する。東をほり川が南流する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分長面村 中」と記し、本納九石八斗六升三勺・縄高一七石一斗三升四勺、家五軒とある。近世を通じ村上藩領。正保国絵図に「長松村 百石余」とある。延享三年(一七四六)の巡見使案内帳(高橋広安氏蔵)には家数九(うち百姓四)鎮守熊野権現、薬師堂は御林の内にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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