村上藩(読み)むらかみはん

藩名・旧国名がわかる事典 「村上藩」の解説

むらかみはん【村上藩】

江戸時代越後(えちご)国岩船(いわふね)郡村上(現、新潟県村上市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩(一時親藩(しんぱん))。藩校は克従館。1598年(慶長(けいちょう)3)、上杉景勝(かげかつ)が会津に移されたあと、堀秀治(ひではる)が越後の国主として春日山城(かすがやまじょう)に入った。その際、秀治の与力(よりき)大名として村上頼勝(よりかつ)(義明)が加賀(かが)国小松から9万石で当地に入り、立藩した。2代忠勝が御家騒動を理由に改易(かいえき)されたあとは、譜代や家門(かもん)が相継いで入封(にゅうほう)した。外様の堀氏2代(10万石)、譜代の本多忠義(ただよし)(10万石)、家門の松平直矩(なおのり)(15万石)、以下はすべて譜代で、榊原氏2代(15万石)、本多氏(忠勝系)2代(15万石→5万石)、松平大河内)輝貞(てるさだ)(7万2000石)、間部(まなべ)氏2代(5万石)と続いた。1720年(享保(きょうほう)5)に内藤弌信(かずのぶ)(5万石)が入り、以下内藤氏9代が明治維新まで続いた。1871年(明治4)の廃藩置県により、村上県を経て新潟県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「村上藩」の意味・わかりやすい解説

村上藩
むらかみはん

越後(えちご)国村上(新潟県村上市)に居を定めた藩。本庄(ほんじょう)藩ともいう。1598年(慶長3)越後国春日(かすが)山城主堀秀治(ひではる)の与力(よりき)大名として加賀国(石川県)小松から村上頼勝(よりかつ)(義明)が入り、9万石を領したが、1618年(元和4)忠勝のとき改易されると、堀直寄(なおより)・直定(10万石)の外様(とざま)大名が在封。1642年(寛永19)堀氏除封後は一時幕領。1644年(正保1)より本多忠義(10万石)、1649年(慶安2)より松平直矩(なおのり)(15万石)、67年(寛文7)より榊原政倫(さかきばらまさとも)・勝乗(かつのり)(15万石)、1704年(宝永1)より本多忠孝(15万石)、9年本多忠良(5万石)、10年より松平(大河内(おおこうち))輝貞(てるさだ)(7万2000石)、17年(享保2)より間部詮房(まなべあきふさ)(5万石)、20年より内藤弌信(かずのぶ)(5万石)と相継いで家門・譜代(ふだい)大名が在封した。内藤氏は以後、信輝、信興(のぶおき)、信旭(のぶあきら)、信凭(のぶより)、信敦(のぶあつ)、信親、信民と8代続いて1871年(明治4)廃藩、村上県を経て新潟県に編入された。

[松永克男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「村上藩」の意味・わかりやすい解説

村上藩
むらかみはん

元和4 (1618) 年以前は本庄藩といった。江戸時代,越後国 (新潟県) 岩船郡地方を領有した藩。村上氏9万石に始り,元和4年以降堀氏 10万石,本多氏1万石,松平 (結城) 氏 15万石,榊原氏 15万石,本多氏 15万石,松平 (大河内) 氏7万 2000石,間部氏5万石を経て享保5 (1720) 年以後内藤氏5万石が在封して廃藩置県にいたった。内藤氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「村上藩」の解説

村上藩

越後国、村上(現:新潟県村上市)を本拠地とした藩。歴代藩主は村上氏、本多氏、松平氏など。享保年間に内藤弌信(かずのぶ)が5万石で入封してからは、明治維新にいたるまで9代にわたり内藤氏が治めた。

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