長嶺村(読み)ながみねむら

日本歴史地名大系 「長嶺村」の解説

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]郷ノ浦町長峰本村触ながみねほんむらふれ長峰東触ながみねひがしふれ

半城はんせい村の北に位置する。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では可須かす(現勝本町)聖母しようも大明神の神領九四町のうちとして長嶺村とみえ、同年とされる壱岐国七社神領敷地定書(同書)では志佐氏の領知として長峰とある。永禄一〇年(一五六七)の壱岐国田帳(竹下家文書)西目にしめ一七町八反四丈として二九名の給人に分給されている地は黒崎くろさき村と長嶺村を含むものであった。元亀元年(一五七〇)一二月「長嶺高峯権現社」が日高喜と賢勝によって建立された(松浦家世伝)

慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に長嶺村とみえ、高七四七石余。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]幸田町長嶺

東は山で桑谷くわがい(現岡崎市)、西は坂崎さかざき村と耕地と山で接する。南は久保田くぼた村と耕地で、北は山で竜泉寺りゆうせんじ(現岡崎市)と接する。明治以前村内を長嶺川が坂崎村を通って菱池ひしいけ沼に流れていた。鎌倉期から室町期と推定される山茶碗が出土する古窯跡が村域東部の台地に三基発見されている。古代この地方に「白鳥村主・長嶺宿禰」の帰化した一族が居住したという(岡崎市史)。中世では坂崎郷の内に属した。

「家忠日記」の天正一六年(一五八八)八月一六日条に「するか駿河へさか崎長嶺の田地天野伝右衛門と公事候て、吉田与五右衛門下候」とあり、天正以前より深溝松平氏領であったことになる。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]三条市長嶺

吉田よしだ村の南、嵐南東山丘陵沿いに位置し、南は山崎やまざき新田。集落の西方、小高い岡にあるたて遺跡からは管玉の未完成品や土師器・須恵器とともにほぼ奈良時代と推定される住居跡が発見されている。これより南東には通称城の越じようのこし(山崎新田地籍)があり、さらに東の丘陵部の大嶺おおみねという所はデンジョウとよばれ、これに連なる頂には室町中期から戦国期にかけての山城跡がある。

慶長三年(一五九八)新発田藩領となる。同一〇年の給知方村々高目録(新発田市史資料)には「長峯村」と記され、毛付二七三石七斗余・荒五〇石九斗余。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]熊本市長嶺町

東は小山おやま村・戸島としま村、北は合志こうし郡大津手永の小山御領おやまごりよう村である。文和二年(一三五三)一〇月二一日の足利尊氏御教書案(詫摩文書)に「肥後国六ケ庄内小山村地頭職・同戸嶋永峯南村」とみえ、早岐秀政の本知行が安堵されている。現高を記す慶長八年(一六〇三)の検地帳では田方一六町九反一畝余・畠方四七町六反余、分米四九四石九斗余で、家数九一、男六二(うち年寄三・倅一二)、女五二(うち年寄九・娘四)、馬一七・牛二四とあり、ほかに野開二九町七反四畝余がある。また同年の打出帳には田五町六反九畝余・畑山畑居屋敷二〇町七反余、分米一八六石二斗余、家数五九、男二六(うち年寄八・倅二)、女二二(うち年寄三・娘三)、馬七・牛一一が記録される。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]鹿角市八幡平はちまんたい 長峯ながみね

熊沢くまさわ川が米代川に合流する北に位置し、南は谷内たにない村。山麓を小豆沢あずきざわ―谷内を貫く道が通る。現長畑ながばたけ新城しんじように縄文期の遺跡がある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「長峯村 長峯下総領知 本名成田 館有」とあり、中世後期には開村していた。集落南側高台に中世の館跡があり、空堀・清水などが残る。比高三五メートル前後、郭ごとに八幡館はちまんたて東館ひがしたて西館にしたて寺館てらたてなどの地名を残し、西側・北側の所々に帯郭を巡らす。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]宮崎市長嶺

浮田うきた村の西に位置する。宮崎郡に属し、南は細江ほそえ村、西は諸県もろかた倉永くらなが(現高岡町)浮田村から細江村に至る往還道が通る。中世は長峯ながみね別符とよばれ、豊前宇佐宮領の庄園であった。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に長峯一六町とあり、高橋元種領となっている。慶長六年(一六〇一)三月、島津勢が大挙して穆佐むかさから押寄せ、伊東勢と長嶺表で合戦となり、伊東方は日野雅楽助ら三人が討死している(日向記)。領主の変遷は上別府かみべつぷ村と同じ。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高二五四石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚では内検高四五六石余。延岡藩跡江組八ヵ村の一つ(「宮崎役所万覚」内藤家文書)

長嶺村
ながんみむら

[現在地名]喜界町長嶺ながみね

早町そうまち村の北東に位置する。上島ういんしま下島さんしまなど七つの里からなり、泉を中心とする水田は平家の落人が隠れ里として開いたと伝える。東方に平家へいけ森がある。ひが間切のうち。貞享二年(一六八五)頃、那志頭は「東間切長峯」の与人を勤めたという(「金樽一流系図」奄美大島諸家系譜集)。元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に東間切与人のとして「永嶺村」とみえる。明治元年(一八六八)の黒糖産額一万二千一四五斤・甘蔗作付八町五反余(「製糖調」奄美史料)。長嶺の盛里という男が塩道しゆみちの美女ケサマツに横恋慕して強引に言寄ったところ、ケサマツは騙して盛里を馬に括りつけ、塩道長浜を何度も走り回り、ついに盛里は死んだという。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]西山町長嶺

北は鎌田かまた村、東は礼拝らいはい村・鎌田村、南東は別山べつやま川を隔てて黒部くろべ村・鬼王おによ村、北西は丘陵で後谷うしろだに村。村の開発について、庄屋山田家の明治二年(一八六九)の由緒書(山田庄九郎家文書)によると、康治元年(一一四二)の開拓と伝える。元和二年(一六一六)幕府領、寛永元年(一六二四)高田藩領、天和元年(一六八一)幕府領、貞享二年(一六八五)高田藩領、宝永二年(一七〇五)与板藩領。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]根尾村長嶺

門脇かどわき村の北西に位置し、根尾西谷ねおにしたに川左岸山麓に集落がある。越前と美濃を結ぶ街道に沿う。正保郷帳によれば田一五石余・畑七七石余・紙桑木高二七石余・山年貢一〇石余。寛文一三年(一六七三)名寄帳(所文書)によれば綿代米一石余・段木金一二両・銀八匁四分などを上納。高持百姓のうち最大は一四石余で、一〇石以上の高持は三人であった。嘉永四年(一八五一)大垣藩の内検で村高一二七石余となった(「根尾筋村々御物成帳」小野島文書)

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]板倉町長嶺

別所べつしよ川左岸に位置し、東は長塚ながつか村、南は坂井さかい村に接する。正保国絵図では高三七七石余。天和三年(一六八三)の検地帳(名川文書)によれば高七二五石余、うち野高一石四斗二升七合・漆高一斗六升、田四六町二反余・畑一五町二反余で、除地として本覚ほんがく寺二石八斗二升・八幡宮七石七斗のほか諏訪・十二神などの境内合せて一反七畝余があった。

長嶺村
ながみねむら

[現在地名]下山村花沢はなざわ

ともえ川の支流郡界ぐんかい川の右岸に沿い、北から東は花園はなぞの村、南は田代たしろ村、西は切二木きぶたぎ村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。国道三〇一号が通る。寛永一二年(一六三五)当時、刈谷城主松平忠房領。慶安四年(一六五一)大島おおしま(現足助町)に陣屋を置く旗本石川貞当の知行地となり明治に至る。

長嶺村
ながんみむら

長嶺ながみねグスクの麓にあったと思われる村。絵図郷村帳豊見城とうみぐすく間切「長嶺村」とみえるが、享保二一年(一七三六)には「当時無之」と記される。琉球国高究帳では同間切のうちに村名がみえ、高頭二一二石余、うち田一五五石余・畠五七石余。当村を領する地頭職には崇禎七年(一六三四)兪氏三世兪得賢長嶺親雲上重昌(兪姓根路銘家家譜)がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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