松平忠輝(読み)まつだいら・ただてる

朝日日本歴史人物事典 「松平忠輝」の解説

松平忠輝

没年:天和3.7.3(1683.8.24)
生年:文禄1.1.4(1592.2.16)
江戸初期の大名越後高田藩主徳川家康の6男。母は茶阿の局。幼名辰千代。慶長4(1599)年武蔵国深谷(埼玉県)1万石の城主となり,7年下総国(千葉県)佐倉4万石の城主。8年信濃(長野県)川中島14万石の城主。11年仙台藩主伊達政宗の娘五郎八を妻に迎えた。15年閏2月越後国福島城(新潟県上越市)城主となり,越後・信濃両国に45万石を支配した。幕府は周辺の大名,村上頼勝(村上藩主),溝国宣勝(新発田藩主)を忠輝の与力とし,また付家老として大久保長安のほか,松平重勝(三条城主)を加えた。幕府の忠輝の福島城移封の目的は,外様大名の雄・加賀前田氏を制すること,関東周辺を徳川一門で固めること,および佐渡運上金銀の輸送路の確保などにあった。忠輝は入封すると間もなく,佐渡3道や北陸街道の整備のために,伝馬定,伝馬宿書出しなどを設けている。また福島城下の田端町に塩小売りの特権を与えたり,町立て,新田開き,新浜開きを奨励し,寺社領寄進を進めた。19年幕府によって高田城(上越市)に移され,大坂の陣が起こると,江戸城留守居を命ぜられたが,大坂夏の陣への参加に当たり,戦闘に遅れたこと,将軍秀忠の旗本ふたりを殺したことを理由元和2(1616)年改易に処された。伊勢国(三重県)朝熊に配流のあと,飛騨高山城主,信州諏訪城主と預け先も移された。

(横山昭男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平忠輝」の意味・わかりやすい解説

松平忠輝
まつだいらただてる
(1592―1683)

江戸前期の大名。初代将軍徳川家康の六男。母は茶阿局(ちゃあのつぼね)。幼名辰千代(たつちよ)。妻は伊達政宗(だてまさむね)の娘。遠江(とおとうみ)浜松に生まれ、一族の長沢の松平康忠(やすただ)の家を相続して松平を称し、武蔵(むさし)深谷(ふかや)、下総(しもうさ)佐倉(さくら)、信濃(しなの)川中島(かわなかじま)(長野市)の城主を経て、1610年(慶長15)越後(えちご)高田(上越市)城主となり60万石を領した。日ごろ酒におぼれ、暴虐のふるまいがあったといわれる。15年(元和1)大坂夏の陣に参加するとき、近江(おうみ)守山(もりやま)で部隊の前を通った将軍の旗本2人を殺し、さらに大坂方との戦闘に遅れたことを直接の理由として、翌年家康の死後領地を没収されて伊勢朝熊(いせあさま)(伊勢市)に流され、ついで飛騨(ひだ)高山、信濃諏訪(すわ)へと転じ、ここで死んだ。墓は諏訪市貞松院。

[上野秀治]

『峰村秀夫著「松平忠輝」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「松平忠輝」の意味・わかりやすい解説

松平忠輝 (まつだいらただてる)
生没年:1592-1683(文禄1-天和3)

江戸前期の大名。幼名辰千代。上総介,越後少将。徳川家康の六男。母は茶阿方(朝覚院)。長沢松平家を継ぎ,1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1602年下総国佐倉5万石,03年信濃国川中島14万石に転じ,10年越後国福島城(1614年より高田城)61万石を与えられ,川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより16年(元和2)改易,伊勢朝熊(あさま)に配流された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平忠輝」の意味・わかりやすい解説

松平忠輝
まつだいらただてる

[生]文禄1(1592).1.4. 江戸
[没]天和3(1683).7.3. 信濃,高島
江戸時代初期の越後高田藩主。徳川家康の6男。母は茶阿局 (ちゃあのつぼね) 。慶長3 (1598) 年三河長沢の松平家を継ぎ,同7年下総佐倉に4万石で入封。同8年信濃川中島 18万石に転じ,同 15年には越後福島 75万石 (異説あり) に移封。同 19年高田に移ったが,元和2 (1616) 年改易,追放に処せられた。改易の原因は大坂夏の陣に遅参したため (『藩翰譜』) とか,キリシタンや外国貿易に深い関係をもっていたためとかいわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平忠輝」の解説

松平忠輝 まつだいら-ただてる

1592-1683 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)20年1月4日生まれ。徳川家康の6男。妻は伊達政宗の娘五郎八(いろは)。慶長4年武蔵(むさし)深谷城主。下総(しもうさ)佐倉,信濃(しなの)川中島,越後(えちご)福島の城主をへて,19年越後高田藩75万石の藩主となる。元和(げんな)2年大坂夏の陣への遅参などを理由に改易(かいえき)となった。上総介(かずさのすけ),越後少将とよばれる。天和(てんな)3年7月3日配流地の信濃諏訪で死去。92歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松平忠輝」の解説

松平忠輝
まつだいらただてる

1592.1.4~1683.7.3

江戸初期の大名。徳川家康の六男。1599年(慶長4)長沢松平家を継いで武蔵国深谷城主となり,のち下総国佐倉・信濃国川中島と城地を移し,1610年越後国福島藩主となり45万石を領する。この間,従四位下右近衛少将に叙任。14年には築城された越後国高田城に移ったが,大坂夏の陣に遅参したため家康の不興を買い,翌16年(元和2)改易となり伊勢国朝熊(あさま)に配流。その後飛騨国高山・信濃国諏訪と配地を移された。

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367日誕生日大事典 「松平忠輝」の解説

松平忠輝 (まつだいらただてる)

生年月日:1592年1月4日
江戸時代前期の大名
1683年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松平忠輝の言及

【越後国】より

…以上のようにして越後の近世史が開幕した。10年,堀氏のあと家康の第10子松平忠輝が入封,ここに徳川氏の支配が始まる。幕府は14年東北13大名に高田城を築かせ,北国の固めとして忠輝をここに入れたが,16年(元和2)忠輝の行状に不遜なものがあるとして改易,その遺領を幕領および高田,長嶺,藤井,長岡,三条の5藩に分かち,ここに小藩分立時代が到来した。…

【佐倉藩】より

…江戸前期には藩主の移動が激しかったが,1746年(延享3)以降は堀田氏の所領として定着した。1590年(天正18)三浦義次入封(1万石)の後,92年(文禄1)武田信吉(徳川家康の第5子,4万石),1602年(慶長7)松平忠輝(同第6子,5万石)と,佐倉の地は徳川一門の所領として重視された。譜代大名の入封は07年小笠原吉次(2万8000石)が最初で,以後譜代所領となる。…

【皆川広照】より

…90年の小田原征伐で家康に投降し,本領1万3000石を安堵された。1603年(慶長8)松平忠輝の補佐の臣となり,信濃国飯山7万5000石を領する。09年忠輝の行状を幕府に訴えたが,かえって改易となった。…

※「松平忠輝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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