長坂村(読み)ながさかむら

日本歴史地名大系 「長坂村」の解説

長坂村
ながさかむら

[現在地名]江迎町長坂免ながさかめんかじ村免むらめん北田免きただめん根引免ねびきめん飯良坂免いらのさかめん栗越免くりこしめん箙尾免えびらおめん中尾免なかおめん奥川内免おくがわちめん埋立免うめたてめん上川内免かみがわちめん北平免きたひらめん三浦免みうらめん乱橋免みだればしめん小川内免おがわちめん赤坂免あかさかめん

江迎村の西方に位置し、江迎川の河口部にあたる。これは狭義の村域で、幕末期には江迎村などを含む複数の村の総称でもあった。地内の北平・中尾・箙尾などに中世の松浦党の田平里たびらさと(現田平町)城主峰披を祀る鎌倉かまくら神社が五社あることから、その勢力下にあったとされる。飯良坂免に斧取よきとり城跡とよばれる遺構があり、石塁のほか墳墓がある。箙尾免の中ほどに城山しろやまのほか、屋敷前やしきまえ館屋通たちやとおり櫛狩屋くしかりやなどの地名が残る。江戸時代は平戸藩領のうちであるが、江迎村のうちとして扱われる場合が多かった。

慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に「永坂」とみえ、一里山が築かれていた。明暦元年(一六五五)浄念じようねん寺三世の教伝のとき地所を求めて開墾、三浦新田がなったと伝える(「浄念寺相承伝」浄念寺文書)。同二年の田方帳抜書では「江迎長坂村」内に長坂免と記される。文化九年(一八一二)永坂の白岩潟しらいわがた新田の潮留が完成、この頃新田がなったらしい(「深江新田築造覚帳」江迎町郷土誌)。同一〇年一月、伊能忠敬の一行は江迎村長坂浦に到着、山本屋などに止宿(伊能忠敬測量日記)

長坂村
ながさかむら

[現在地名]東山町長坂

松川まつかわ村の北にあり、砂鉄さてつ川がほぼ中央を西へ流れ、猿沢さるさわ川・山谷やまや川を合せながら南へ向きをかえて流れる。猊鼻げいび渓を含む砂鉄川沿岸部は渓谷となっている。同川沿いに今泉いまいずみ街道が走り長坂宿が設けられている。「正法年譜住山記」には文和三年(一三五四)「長坂之内」千刈が正法しようぼう(現水沢市)に寄進されたとあり、康暦元年(一三七九)にも長坂の大出尼から寄進があったことを記す。一五三〇年代頃の熊野山新宮勧進状(熊野速玉大社文書)では、長坂の平親宗が紀伊熊野山新宮に一貫文を奉納している。年未詳の四月一五日の左衛門尉書状(千厩白石歴文書)によれば、小野寺民部一門の下向に協力するため、東山長坂の三〇貫文の地を同氏に与えるとしている。

寛永一九年(一六四二)の長坂村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田方三四町八反余・代四二貫四七文、畑方一九二町七反余・代四三貫四九七文、名請人数一二七。正保郷帳に長坂宿とみえ、田三六貫八八八文・畑三七貫八五七文、ほかに新田八貫九九文があり、水損と注記される。「安永風土記」によれば、田五三貫七四五文・畑四九貫九七八文(うち茶畑七三九文)、うち蔵入六七貫八一五文・給所三五貫九〇八文。人頭三一一、家数三三三(うち水呑二二)、男九二五・女七六四、馬二六〇。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]氷見市長坂

北は平沢ひらさわ村、東は中田なかた村、南は姿すがた村と戸津宮とつみや村。石動山せきどうさん丘陵の南東斜面に位置し、比較的傾斜の緩い台地に水田が開かれ、集落は馬場出ばばで大橋出おおはしで山田出やまだでの三垣内に分れる。村の南方の谷を下田しもだ川が東流する。延文四年(一三五九)一一月日の得田章親代大隅貞章軍忠状(遺編類纂所収得田文書)によれば、同年七月一八日に能登の吉見刑部少輔は長坂口から越中に侵入している。天正年中(一五七三―九二)一二月三日の大窪村大工居屋敷物成赦免状(大窪大工神明講蔵)に「四俵 長坂村」とある。文禄四年(一五九五)の氷見庄加納村等指出写(加越能文庫)に「めらの内 長柄村」とあるのが当村と思われ、高三〇一俵余、山銭一貫文である。正保郷帳では高二九八石余、田方四町七反余・畑方一五町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三二二石、ほか二石は天正五年大窪おおくぼ村大工拝領屋敷高、免五ツ三歩、小物成は山役五一匁・蝋役九匁(三箇国高物成帳)。明暦二年(一六五六)の百姓五七・頭振二(「加納組高覚帳」円仏家文書)。寛保二年(一七四二)の百姓五〇・頭振二(「高免等書上帳」折橋家文書)。天保四年(一八三三)の家数七一(「家数調理帳」同文書)。同一三年の百姓数七二(「八代組草高免付帳」戸津宮区有文書)

長坂村
ながさかむら

[現在地名]大内町長坂

いも川の中流右岸にあり、東は葛岡くずおか村、南は及位のぞき村に接する。

慶長九年(一六〇四)の本庄豊前守満茂知行状(山形県史)に「長坂村」として記され、慶長一七年の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)新沢あらさわ郷の一村として記される。寛永二年(一六二五)では一二二石七斗八升五合、納米五二石七斗九升八合、免四ツ三分(油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写)。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に二〇九石六升四合、そのうち畑は七石六斗四升四合で、「旱損所 かや山有 新開有」とある。正保四年の出羽一国絵図には二〇九石の長坂村と、二九〇石のもう一つの長坂村とが記され、両村の間に一里塚があった。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]吉川町長坂

北は道之下どうのした村、東は国田こくた村と接する。南西にある朔日ついたち峠は現吉川町・頸城村・東頸城郡浦川原うらがわら村の境界をなすが、古代・中世には柿崎かきざき(現柿崎町)から高谷たかたに川をたどって信濃へ赴く山街道の峠道であったという。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「居田分長坂村 下」とみえ、本納二石七斗・縄高二石三斗、家一軒・二人とある。元和五年(一六一九)の原町組長坂村年貢庭帳(八木林次郎氏蔵)に高一四七石六斗、うち二石は山高、此取一八石四斗二升二合・地高一ツ二分とある。正保国絵図でも高一四七石余とみえる。天和元年(一六八一)の年貢割付状(明治大学刑事博物館蔵)によれば、高一四七石六斗、その分米三四石七斗八合・大豆一石四斗七升六合、その代米七斗三升八合・上銀一九匁六分八厘、その代米二斗三升三合七勺を当村百姓に割付けている。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]名張市赤目あかめ町長坂

一之井いちのい村の南西に位置し、たき川が村の中央を流れる。滝川上流には赤目滝のある枝村滝がある。長承三年(一一三四)七月の伊賀国矢河中村夏見公畠取帳(筒井英俊氏蔵文書)の「矢川条公畠」の永久ながひさ名に「長坂正友得三段」とみえ、元暦元年(一一八四)一〇月の僧隆寿解案(松田福一郎蔵本東大寺文書)にも「矢川条長坂」とある。

長坂村
ながさこむら

[現在地名]山鹿市長坂ながさか

東部を千田ちだ川が北流し、北東部で菊池川に合して北境を西流、西はなかちよう村、東は小柳こやなぎ(現鹿本郡鹿本町)、南は千田村・持松もちまつ(同鹿央町)と接する。天文年間(一五三二―五五)と推定される一月二二日の五条氏所領坪付(五条家文書)に「一所 なかさこ 三丁」とある。「鹿郡旧語伝記」には「コノ村ニ年ノ神トイフ所アリ、ココハ星子中務居城ノ時ノ町筋ノスサキナリ、仲務住ム頃イササカノ町ナリ」とあり、戦国末には長坂城城下の町場が形成されていたことを推測させる。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]西郷村長坂

阿武隈川北岸にあり、南対岸はよね村、東は大谷地おおやち(現白河市)、北は飯土用いいとよ(現大信村)、西は柏野かしわの村、北西一七町二間に端村の赤淵あかぶち村がある。北東は山で、南西に田が開ける(白河風土記)。。初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、慶応二年(一八六六)以後幕府領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二六七石余。慶安三年(一六五〇)本多忠義による検地の高五一九石余(白河古領村郷高帳)。文化年間(一八〇四―一八)の白川郡内二万石分村高(福島県史)では高五一九石余・免三ツ六分。同じ頃の家数は本村四〇・赤淵村八(白河風土記)

長坂村
ながさかむら

[現在地名]横須賀市長坂一―二丁目・長坂・御幸浜みゆきはま

北は大楠おおぐす山塊を境に下平作しもひらさく村、南は小田和こたわ湾、西は佐島さじま村・芦名あしな村に接し、東は荻野おぎの大田和おおたわ二村に接する。南北朝時代の長坂郷は大友氏の所領で、貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職注進状案(県史三)によると「三浦長坂郷」を当知行している。永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職注文案(同書)によれば、長坂郷は氏時から子親世に相伝された。小田原衆所領役帳に坂口惣左衛門「卅三貫弐百文 長坂内宮地寺地方」、正木兵部大輔「百貫七百十一文 長坂」とある。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]菊間町長坂

高縄たかなわ半島の西部、菊間川と長坂川の合流点付近にあたる。南方の長者森ちようじやがもりから延びる長い丘陵端に集落が並び、丘陵上には古墳が分布する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「長坂村 日損所、芝山有、林有、小川有」とみえ、村高は五三二石二斗四升五合である。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六―四一)頃には田三二町八反、畑四三町一反、新田畑一反余、家数七三軒、人数四二三人で牛馬一一九疋。庄屋は寛永一二年(一六三五)初代清道以来田窪氏の世襲であった。文政九年(一八二六)から一三年にかけて、庄屋亀右衛門が所有を主張するおも高山と竹藪について農民が異議をとなえ、両者の争論となった。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]西区伊川谷町長坂いかわだにちようながさか学園西町がくえんにしまち八丁目、垂水たるみ神陵台しんりようだい一―九丁目・南多聞台みなみたもんだい一丁目・同六丁目

伊川左岸に位置し、西は池上いけがみ村。永仁六年(一二九八)一〇月二一日預所沙弥某が「十六条九方坪 肆拾伍代」などを敷金寺免田として寄進したが、この地はのちの注記によれば長坂にあったという(「預所沙弥某田地寄進状写」太山寺文書)。翌正安元年(一二九九)一一月には同じ場所を敷金寺の堂宇修造、香花灯明のために寄進している(一一月日「地頭代官僧某田地寄進状写」同文書)

長坂村
ながさかむら

[現在地名]倉吉市長坂町・長坂新町ながさかしんまち東鴨新町ひがしがもしんまち東鴨ひがしがも

下大江しもおおえ村の南、小鴨おがも川の右岸に位置する。拝領高は二七四石余、本免は五ツ六分。倉吉組士渡辺氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高三二〇石余、竈数一三、村内に客大明神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三三〇石余、竈数一九。藪役銀四匁五分・山役米三斗六升が課されていた(藩史)。寛延三年(一七五〇)上古川かみふるかわ村惣右衛門(蓑原家)は当村で鉄穴流しを行うにあたり、この土砂によって埋まる河原地などの年貢を肩代りすることなどを条件に、藩に許可を願出て認められた。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]田代町長坂

大館・鷹巣たかのす両盆地の接点、南流する早口はやくち川が米代川に注ぐ所に位置する。早口村より半里西。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に長坂村とみえ、枝郷大巻おおまき七軒、出土早口でとはやくち二軒、中留なかとめ一軒、玉瀬たませ(人居なし)の四ヵ村が記載される。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では、大巻・坂地さかちの二枝郷だけで当高は四六石余。「秋田風土記」に「肝煎与五右衛門と云有。祖ハ南部浪人ナリ。小笠原某と云、此村に来て田地開発す。慶安元年開発成就して御竿入、肝煎となる」と開村の由来を語る。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]東部町大字あがた

田中宿から海善寺村に通ずる道沿いにある。東は棗田なつめだ村、西は海善寺かいぜんじ村、南は田中村、北は三分みわけ村に接する。初め三分川寄りの段丘崖下にあったが、寛保二年(一七四二)の大水害後、現在の地に移ったと伝える。長江ちようこう寺は禰津長命ねつちようめい寺末で、山号を坂流山といい、寛保の水害にちなむという。

慶安五年(一六五二)の禰津組・向井組本帳(斎藤典久氏蔵)によると、田畑九町五段余で一二六石余の村高で、庄屋給が三俵であった。

長坂村
ながさかむら

[現在地名]山北町長坂

三条さんじよう山の南西麓、立島たてしま(現勝木川)右岸にあり、対岸は遠矢崎とおやさき村。北西は上大蔵かみおおくら村、南東は垣野内かきのうち村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大河分村之は なが坂村大川分 中」とみえ、本納五石五斗・縄高九石一斗、「竹林有」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報