田代町(読み)たじろまち

日本歴史地名大系 「田代町」の解説

田代町
たじろまち

[現在地名]鳥栖市田代上町たしろかみまち・同大官町だいかんまち・同新町しんまち・同昌町しようまち・同外町ほかまち

近世対馬藩田代領の主邑で、表高一万三千四〇〇石余の地を支配する代官所が置かれた小城下町。町は田代村が立地する中位段丘を長崎街道が通るところに建設され、田代村に含まれる。台地であるが地下水位は浅く、水は得やすい。町の原形は街道筋に自然にできた街村状集落と思われ、祇園ぎおん(現八坂神社)の勧請が永禄六年(一五六三)と伝えられるから、町の成立もその頃であろう。

最初の町であるほん町は上・下両町に分れ、代官所は両町の境、上町の地に置かれた。慶長四年(一五九九)基肄養父やぶ両郡のうち一万石余の地が対馬島主宗氏の所領となるが、初め直接支配したのは重臣柳川氏の下代官であり、寛永期(一六二四―四四)の柳川事件(三養基みやき郡の→園部村)の際、いっさいの記録・文書を焼却したため領有初期については不明のことが多い。だが西清寺縁起によって代官所は元和年間(一六一五―二四)の設置とみられる。対馬から代官(上士)・副代官(中士)・賄役(小士)の三役が少数の軽輩を伴って来任し、代官所屋敷内に居住した。手代役以下の諸役は領民から登用したが、幕末期までは士分はほとんどいなかったので武家屋敷町はない。寺は上町入口に西清さいせい寺・昌元しようげん寺・浄覚じようかく寺の三ヵ寺を集め、ほか下町に光徳こうとく寺がある。正保四年(一六四七)の町は、竈数二〇五、うち町家一九八、職人二、医師一、祇園坊一、寺三であった(基養精細録)

筑前国原田はるだ宿(現福岡県筑紫野市)から南下した長崎街道は町の東口(昌元寺町)で鉤形に入って代官所前を西へ貫く一本道であったが、明暦元年(一六五五)これを下町で鉤形に南折させた。

田代町
たしろちよう

面積:七七・八一平方キロ

肝属郡の南部に位置し、北は大根占おおねじめ町、東は内之浦うちのうら町、西は根占ねじめ町、南は佐多さた町に接する。町域は一八〇メートル以上の高地にあり、ふもと地区(大字麓の北部)川原かわはら地区・大原おおはら地区(大字麓の南部)の三地区に分けられる。町域の大部分は山地で、外周は北西部を除いて標高五〇〇―八〇〇メートルの肝属山地が連なり、主峰の荒西あらせ(八三三・七メートル)六郎館ろくろうかん(七五四メートル)稲尾いなお(九五九メートル)がそびえる。六郎館岳西方に源を発する川は上流では奥花瀬おくはなぜ川・花瀬川、川原付近では川原川と称され、当町北西端で麓地区を流れる麓川を合流している。水田と集落は麓川と雄川の流域に帯状に分布し、麓地区の田代小学校付近で国道四四八号と主要地方道鹿屋かのや吾平あいら―佐多線が交差している。

田代町
たしろまち

[現在地名]諫早市東本町ひがしほんまち

諫早市中の中央部東寄りに位置する。田代町別当の管轄下にあった。宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳に田代町と記される。天保一〇年(一八三九)以前の諫早旧城下図(「諫早市史」所載)では田代町の北に光江みつえがあり、東方に新中川良しんなかがわらが記される。文化元年(一八〇四)五月の強雨による洪水で田代町の一二〇人、田代町掛の唐津からづ(光江の東)の一八人の水難者らに握り飯が供されている(諫早日記)。安政二年(一八五五)の佐賀領郷村帳(佐賀県立図書館蔵)では田代町に蔵屋敷くらやしきとあり、同地区を管轄下に置いていたと考えられる。

田代町
たしろまち

面積:三〇七・七九平方キロ

北秋田郡北端に位置し、北は青森県南津軽郡大鰐おおわに町、弘前市、中津軽郡相馬そうま村・西目屋にしめや村に接し、東は大館市、西は山本郡藤里町。県境に源をもち、南下して大館盆地の西部で米代川に注ぐ早口はやくち川・岩瀬いわせ川流域からなるが、山が多く、ほぼ九〇パーセントは山地。県境にみつ森・長慶ちようけい森・孫左衛門まござえもん山など一〇〇〇メートル近い山が連なるほか、その南に郡内有数の高山田代たしろ岳・烏帽子えぼし(一〇八六メートル)があり、田代岳県立自然公園となっている。

田代町
たしろちよう

[現在地名]弘前市田代町

城の南東に位置し、北は山下やました町、南は西川岸にしかわぎし町、東は坂本さかもと町、西はおかち町に接する。

「津軽史」によれば、宝永(一七〇四―一一)の三の郭住宅移転の際、同四年頃に町内が成立したという。明和元年(一七六四)の藩律に城東の士街として町名があり、武家屋敷が一五戸。寛政改革の藩士土着令により町内の藩士が在方へ移住したため、寛政五年(一七九三)町内は御家中潰町となった(平山日記)

田代町
たしろまち

[現在地名]柳川市沖端町おきのはたまち

石場いしば町通から東へ続く通りを中心とした町。北側は城堀へ続く堀に面した片側町。南裏は吉富よしとみ村。年不詳の柳川城下絵図・沖端南部(九州大学附属図書館六本松分館蔵檜垣文庫)に張られている付箋から、土地は吉富村支配、住民は町方支配であったことがわかる。また元来は吉富村支配であったが、正徳二年(一七一二)に沖端別当より組頭をたて町方の支配を受けることになったという(「郡役所日記」郡郷)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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