海善寺村(読み)かいぜんじむら

日本歴史地名大系 「海善寺村」の解説

海善寺村
かいぜんじむら

[現在地名]東部町大字海善寺

北国脇往還海野うんの宿から根津ねつ村へ通ずる道沿いにある。東は三分みわけ村・棗田なつめだ村、西は中曾根なかぞね村、南は本海野もとうんの村、北は東上田村と境をなす。開善寺村とも書く。

古くは海野氏領と伝えられ、永禄五年(一五六二)一一月の武田信玄判物(開善寺文書)に、武田氏は所願成就すれば開善寺の旧領を開善寺大坊に返還すると記した。開善寺はのちに真田氏の上田城下建設に伴い城下に移転、その跡を寺屋敷という。

海善寺村
かいぜんじむら

[現在地名]亀山市井田川いだがわ町・みどり町

川合かわい村の東北に続く東海道沿いの村。「三国地志」には「開前寺」とあり、村名は廃寺となった開前かいぜん大寺によるという。井田川茶臼山いだがわちやうすやま古墳があり、中世には平田氏の築いた海善寺城がある。近世を通じて亀山藩領。寛永一四年(一六三七)内検地田畑合せて二一町余、村高は三〇三石余で、茶桑銭・藪年貢・新開林運上銀や酒年貢(米一石余)上納。助郷役の代りに二分金を負担する一方、伝馬宿入用銭を上納した。街道筋の村であることから、領内河曲かわわ岸岡きしおか村・安塚やすづか(現鈴鹿市)とともに地内の町場掃除役が課せられ、両村からは夫役に替えて二人分の賃銀一一〇匁を徴収。延宝四年(一六七六)に家数三二、うち本役一九・無役一三、人数一七六、牛馬数二一(九九五集、亀山御領分雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報