長円寺(読み)ちようえんじ

日本歴史地名大系 「長円寺」の解説

長円寺
ちようえんじ

[現在地名]西尾市貝吹町 入

市の東端、低い山並の一角、万灯まんとう山麓に位置する。万灯山と号し、曹洞宗本尊十一面観音京都所司代板倉勝重の菩提寺。もと碧海へきかい中島なかじま(現岡崎市)にあった永安えいあん寺を慶長八年(一六〇三)勝重が再建し、中島山長円寺と改めたが、子の重宗は、寛永七年(一六三〇)勝重の七回忌の追善に当たり、寺地を現在地に移転、新しく大殿・禅堂・山門・斎堂などの諸伽藍を建立し、山号を万灯山に改めた。島原の乱に総帥として出陣し戦死した重宗の弟重昌の墓があり、墓石の裏面に「寛永十五年正月一日於肥前有馬城討死」と刻す。また深溝ふこうず板倉氏の祖重直の墓もある。

長円寺
ちようえんじ

[現在地名]五所川原市飯詰 福泉

飯詰いいづめ集落の中ほどにあり、大伊山と称し、曹洞宗、本尊釈迦如来。もと長勝ちようしよう(現弘前市)末。貞享四年(一六八七)検地帳に長円寺とある。創立は不明だが、古くからあった庵に長勝寺一四世聖眼が開山となって開いた(「長勝寺並寺院開山世代調」長勝寺蔵)。この時を「飯詰村史」は寛文七年(一六六七)とする。この寺の梵鐘には沈鐘伝説があり、正徳六年(一七一六)京都三条釜座さんじようかまんざで鋳造された長円寺・長勝寺の二つの鐘が、船で津軽へ送られてきた。

長円寺
ちようえんじ

[現在地名]三次市西酒屋

曹洞宗、竜王山と号し、本尊十一面千手観音。「芸藩通志」は「伝云、初め畠敷村にあり、中ごろ此地に移し、又原村に移りしが、寛永二年又此に移す、大同元年の開基なりといふ」と記す。

享保四年(一七一九)長円寺海印の記した縁起(「双三郡誌」所収)によると、畠敷の比叡尾山はたじきのひえびやま城主三吉氏一七代の菩提所と伝え、三吉氏から寺領田六反・畠二反を与えられ、道元が宋より持帰ったと伝える釈迦唐金仏と虎刎杖を蔵し、初め越前永平寺の直末であったが、遠方なので、寛文年中(一六六一―七三)より甲奴こうぬ稲草いなくさ(現総領町)龍興りようこう寺末となったとある。

長円寺
ちようえんじ

[現在地名]中区栄二丁目

転輪山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は木造阿弥陀如来。寛文六年(一六六六)六月、長玄が中須賀なかすか町に建立した(市譜)とされるが、清須きよす越しとの説もある(尾張名陽図会)

長円寺
ちようえんじ

[現在地名]下京区中堂寺西寺町

松原まつばら通に北面して位置する。延命山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「拾遺都名所図会」および「京都府地誌」は、慶長一三年(一六〇八)清厳の開基と記す。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には長円寺と門前集落が描かれる。「拾遺都名所図会」に境内観音堂本尊聖観音について、長徳四年(九九八)の冬疱瘡が流行して小児の死ぬこと多く、恵心が聖観音を彫り祈祷したところ疱瘡の流行がとまった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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