長井村(読み)ながいむら

日本歴史地名大系 「長井村」の解説

長井村
ながいむら

[現在地名]北川町長井

五ヶ瀬川の支流北川の中流域、川内名かわちみよう村の南に位置し、東は須怒江すぬえ(現延岡市)。地勢は「日向地誌」に「群巒蜿蜒三面ヲ環繞シ可愛ノ嶽西ニ突立シ一帯ノ大川其中央ヲ貫ク」とあるように、西部は可愛えの岳に続く山間地、東部は蛇行しながら村を南北に貫く北川を中心に平坦地が広がる。古代には西海道の長井駅が置かれ、中世には当地付近は長井院とよばれた。

寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高二四七石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚では内検高三六七石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)では高二四七石余で、ほかに出高一八一石余がある。また新田高三四石余があり、ほかに出高二五石余。享保二年(一七一七)年貢割付状(北川町役場蔵)では高四二九石余、うち寺社免地・庄屋屋敷・山廻屋敷・鍛冶屋敷高引が二石余、荒地高引が三〇石余で、同年六月には大麦四六石余と小麦二〇石余を夏の年貢として皆済することになっている。

長井村
ながいむら

[現在地名]長南町豊原とよはら 永井ながい

芝原しばはら村の北に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。永井とも。天正一九年(一五九一)八月四日の上総之内長南領長井郷検地帳(渡辺家文書)では一町八反余で、取合一八石余、長久ちようきゆう寺は除地とされている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に長井村とみえ、高一七〇石で、幕末まで変わらない。寛永元年(一六二四)の長井村検見帳(渡辺家文書)では上田三町一反余・中田四町九反余・下田三町三反余で、うち有毛九町八反余でほかは種代五反余、名請人一七。正保四年(一六四七)の年貢割付状(同文書)によれば旗本川口領で(幕末まで同様)、米一四八俵余・永一三貫二九二文余。

長井村
ながいむら

[現在地名]横須賀市長井町

小田和こたわ湾の南縁を形成し、北の佐島さじま村と相対し、はやし村・須軽谷すがるや村、本和田ほんわだ(現三浦市)と接する。三浦義明の子義季がこの地に住み、長井を称したという(風土記稿)。「三浦系図」は義明の子として義秀をあげ、長井五郎の通称を記す。小田原衆所領役帳に岸本又七代「卅貫文 岡長井内」とある。岸本は岩本とする説もある。また寛文年間(一六六一―七三)の年貢割付状(鈴木文書)に岡長井村とあり、丘陵部の岡長井と海岸部の浜長井に行政上分割されていたと思われる。その後も宝永七年(一七一〇)から文化七年(一八一〇)までは分郷が存在し、村は二分されて知行されていた。翌八年会津藩領となって以後分割知行されることはなかった。

長井村
ながいむら

[現在地名]会津坂下町長井

現会津坂下町の北端、阿賀川左岸の蛇行部に位置する。東は北流する阿賀川を隔てて耶麻郡山崎やまざき(現喜多方市)、南は同郡真木まき(現同上)、西は千咲せんさき原の丘陵地帯、北は西流する阿賀川を隔てて同郡小布瀬原こぶせはら(現同上)。付近にかまど原・ふくろ原・こう原などの広い河岸段丘が多い。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に槙長井まきながいとあり高二九二石余とあるが、「此内四十八石七斗五升算用違ニ引」と注記され、高二四三石余。槙は真木村のことで耶麻郡に属するが、蛇行する阿賀川に包まれるような特殊地形であったので、便宜上同一支配を受けたと考えられる。

長井村
ながいむら

[現在地名]熊野市育生いくせい町長井

尾川おがわ村の北に隣接する。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「長井村」と記されている。「紀伊続風土記」に「土民皆材木を出し筏に乗るを業とす」と記され、塩谷しおだに(入谷)が東北二キロにあり、尾川川の支流入谷しおたに川の上流にあたる。近世初期の家数一六(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。入鹿組に属する。寛文一二年―元禄一一年(一六七二―九八)、元禄一四年・宝永三年(一七〇六)・正徳二年(一七一二)・同五年の新田検地帳(徳川林政史蔵)が残る。

近世有馬安楽ありまあんらく寺末であった万重まんじゆ寺について「紀伊続風土記」は「昔は真言宗なり、尾川・長井・粉所三箇村持にて七堂伽藍なりしか、慶長十九年焼失せしを、寛永二年草堂を建立すといふ」と記している。

長井村
ながいむら

[現在地名]泉大津市我孫子あびこなど

池浦いけうら村南東にある平地の村。永井とも書く。中世我孫子郷に属し、慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図では我孫子村一千二二一石余に含まれた。寛政二年(一七九〇)村明細帳(小滝家文書)によると、太閤検地は六尺五寸竿、一反が二五〇歩で実施されたという。宝暦元年(一七五一)の差上書付(堤家文書)には、検地帳には長井・つじ穴田あなだ三ヵ村がまとめて記帳されていたと伝えるが、長井村預になっていた検地帳は紛失したとある。また同書付は三ヵ村の関係について「当村ニ聢と枝郷と申義ハ無御座候、併辻村穴田村之事村名ハ有来を承候得共、御高之義長井村御帳面之内より出候村方ニ御座候」と記し、辻・穴田両村は当村から分れた村とする。

長井村
ながいむら

[現在地名]東条町長貞ながさだ

土井どい村の南、東条川左岸に位置する。寛正二年(一四六一)一二月一三日の時延名内田地売寄進状(清水寺文書)には時延ときのぶ名内の一段二五代について「在坪長井村堂東、但名九分一之定」とある。明応六年(一四九七)二月二〇日の田尻盛実書状(同文書)に「吉田本庄河南内時延名事」とあるので、当地は吉田よしだ本庄河南かわみなみ郷内であった。時延名内の一段二五代の田地は田尻盛実の所持分名職内であったのを、以前に山国弥太夫が勝手に売却し、清水きよみず(現社町)に灯油田として寄進したものだった。

長井村
ながいむら

[現在地名]大飯町長井

南は山を背にして北は小浜湾に面し、西は尾内おない村、東は鯉川こいかわ(現小浜市)。村内を丹後街道が東西に通る。「若狭郡県志」に「長井村属加斗庄、去小浜三里余也」とある。慶長七年(一六〇二)の若狭国浦々漁師船等取調帳(桑村家文書)に「長井村壱艘、二人乗惣中」とみえる。しかし宝永二年(一七〇五)の船株茶屋株文書(永谷家文書)には、長井村には船の所在を示していない。

長井村
ながいむら

[現在地名]中条村長井

さい川と土尻どじり川の合流点に近く、二川に挟まれた丘陵地の村。村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「三百四拾五石弐斗五升八合 長井村」とある。元禄以前から枝村に梨木平なしのきたいら村・中長井なかながい村・松之木まつのき村・上長井かみながい村・末那板まないた村・江見えみ村・舟渡ふなと村の七ヵ所があった(「松城領高辻帳添目録」大日方文書)。耕地は畑地が主で麦・粟・大豆及び楮皮を生産した(長野県町村誌)。畑地利用として麻の栽培は江戸時代初期以前から行われ、寛文一三年(一六七三)の山中麻石覚(山野井文書)に「六拾三石三斗」とあり、村高の二割近くに及んでいる。

長井村
ながいむら

[現在地名]矢板市長井

塩田しおだ村の北に位置し、中央をみや川が、東部をなか川が南流する。宇都宮氏旧臣姓名書に長井村の渡辺源右衛門・荒井重左衛門、下長井村の弥兵衛以下の岩下氏四氏・籠谷市良衛門・青木又左衛門がみえる。とくに渡辺・岩下両氏が勢力を有し、一説では両氏の勢力争いが村を分村させ、当地観音寺の檀家が上長井村、川崎反町かわさきそりまち竜泉りゆうせん寺の檀家が下長井村に分離したという。なお郷帳類には長井村一村のみが記される。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、明和元年(一七六四)再び宇都宮藩領となり幕末に至る。慶安郷帳では高一千一五一石余、田方八三八石余・畑方三一二石余。

長井村
ながいむら

[現在地名]熊野川町上長井かみながい

西にし村の東方、熊野街道中辺路沿いに位置。慶長検地高目録では赤木あかぎ村に含まれたが、元禄(一六八八―一七〇四)以後、南隣のひがし村とともに分村(続風土記)天保郷帳には赤木村枝郷とあり、高九九石余。大山組に属し、和歌山藩新宮領。「新宮領分見聞記」に家数八〇とみえる。街道沿いに小名小和瀬こわぜ小口こぐちがあり、この辺りは本宮と那智とを結ぶ大雲取おおぐもとり越・小雲取こぐもとり越の境にあたる。

長井村
ながいむら

[現在地名]輪島市長井町

稲屋とうや村の南西、鳳至ふげし川中流東岸段丘平地と気勝けかち山西麓山地に立地。永井とも書く。当地から輪島まで川沿いに平地が広がり、一〇〇軒ばかりの家が散在していたという(能登名跡志)正保郷帳に村名がみえ、高二六八石余、田方一六町三反余・畑方一町六反、新田高四一石余、田方二町六反余・畑方五畝余。承応三年(一六五四)の村御印の高二八七石余、免六ツ一歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三三〇石、免六ツ一歩、小物成は山役一六六匁・苦竹役三匁・漆役二匁(三箇国高物成帳)

長井村
ながいむら

[現在地名]那智勝浦町長井

太田おおた川の中流域左岸にある。西は小匠こだくみ村、東はなかかわ村。「続風土記」は「村名とゆより起る、色川郷熊瀬川村小名小色川より井溝を作りて水を引く事五十町許にして村中に漑く、因りて長井の名あり」と記す。慶長検地高目録によれば村高六三石余、小物成三斗九升。

長井村
ながいむら

[現在地名]十津川村大字永井ながい

西にし川流域、樫尾崎かしおざき村の北にある。十津川郷のうち。寛永郷帳に「なか井」と記され、村高二二石、幕府領元禄郷帳では村高九・八石。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆一〇〇本、檜角尺〆二〇本、楮二〇貫目、割菜三〇貫目、茶一八貫目、椶櫚皮一千七〇〇枚、煙草一二貫目、炭一五俵とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報