金田城跡(読み)かねたのきあと

日本歴史地名大系 「金田城跡」の解説

金田城跡
かねたのきあと

[現在地名]美津島町黒瀬 城山

じよう山にある七世紀の朝鮮式山城跡で、国指定特別史跡。遺構は外浅海そとあそうの南辺、洲藻すも浦の入口にそそり立つ峻険な神山で、城嶽ともいう。「日本書紀」天智天皇六年(六六七)一一月条に「築倭国高安城。讃吉国山田郡屋島城。対馬国金田城」とみえ、金田城の比定地については諸説あったが、現在では「津島紀略」のいう黒瀬くろせの城山と認定される。天智天皇二年八月、百済の支援に赴いた阿曇比羅夫らの部隊が白村江で唐・新羅の水軍に敗れ、翌九月朝鮮半島からすべて撤退、翌三年唐・新羅の来攻を恐れて大宰府を固め、対馬・壱岐・筑紫の諸国に烽を置き、防人を配備し、また同四年には長門国と、筑紫の大野おおの(現福岡県大野城市)(基肄城、現佐賀県基山町)・長門城(現山口県下関市)を築いており(以上「日本書紀」同年八月条)、対馬の金田城を最前線とする国防戦略が知られる。

標高二七五メートルの山頂部に石塁があり、全山を取巻くように石垣が巡らされ、北西面は天然の絶壁が続く。古代対馬の中枢であった浅海の大口あそうのおおぐちに臨む要害の地であったこと、当時の対馬の中心がけちであったことが、この抱谷式山城の選定理由であろう。城壁の総延長は「津島紀事」は九四三丈と記し、また二千九七〇間ともいうが、約二・八キロと測定された。

金田城跡
こんだじようあと

[現在地名]桜村金田 館山

金田の台地先端、館山たてやまにある城跡。東は桜川の低地に面し、北から西は谷が入組んでいる。三方を空堀で囲まれ、本丸東西六〇メートル・南北一二一メートル。強清水こわしみず城・金田要害ともよばれる。鎌倉初期の築城といわれ、小田(成治)氏の支配下にあり、沼尻氏が代々城主を勤めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「金田城跡」の解説

かねだじょうあと【金田城跡】


長崎県対馬市美津島町にある城跡。対馬の中央部南寄り、対馬海峡西水道(朝鮮海峡)から湾入した浅茅(あそう)湾南岸の湾内に突出した半島の先端部に所在。白村江(はくすきのえ)の戦い後、667年(天智天皇6)に築城され、西国防衛の最北端に築かれた城の重要性と遺構の良好な遺存状況から、1982年(昭和57)に国の特別史跡に指定された。標高275mの城山に築かれた城は、半島東面に3つの城門を設け、北から一ノ城戸・二ノ城戸・三ノ城戸と通称されている。各城門には、谷間を塞ぐように石積みがなされ、水門および門が設けられていたと推測される。石垣の延長は2.8km余で、これは1812年(文化9)撰の『津島紀事』に記載された長さとほぼ一致。石垣の高さは、崩壊などで一定ではないが、原形を保った石垣は6~7mで、絶壁になったところは省略され、土塁も確認されている。対馬空港から車で山麓まで約20分、登山口から徒歩約40分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報