黒瀬村(読み)くろせむら

日本歴史地名大系 「黒瀬村」の解説

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]大島町 黒瀬・馬込まごめ中戸なかとはまぐり徳万とくまん大島おおじま塩田しおだなど

大島の北東に位置し、北東沖になかノ島・はしノ島がある。江戸時代は大村領の外海そとめに属する。江戸時代前期は大島のうちとされる場合が多く、天保郷帳などにも記載がない。正保元年(一六四四)吹切ふつきり番所(黒瀬番所とも)が設置され、外海一六ヵ所番の一つとして小給二、小早船一・水主二が配備された(大村見聞集)崎戸さきと大番所(現崎戸町)に属し、鉄砲二・軍弓一・幕半頭・長柄一を備え、番士一人が詰めていた。遠見とおみ岳に狼煙場が設けられ、まつ(現大瀬戸町)高帆たかぼ岳の狼煙を受けて変を村中に告げるという(大村郷村記)。享保一五年(一七三〇)横目役中島甚兵衛が海浜に漂着した木材を勝手にし、また村民に届出もなく家作を許可するなど、役務に反するとして崎戸島に流されている。黒瀬も流刑の地で、享保一二年・元文五年(一七四〇)・寛延二年(一七四九)・天明四年(一七八四)・享和元年(一八〇一)・文化二年(一八〇五)・同八年などに、材木商い、呪いかけ、博奕、酔余のうえの殺害、年貢の使い込み、江戸詰藩士の不正経理、武士のキリシタン発覚などで配流されている(以上「九葉実録」)

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]越知町黒瀬

仁淀によど川左岸にあり、東端を上八川かみやかわ川が南流。吾川あがわ郡に属した。「土佐州郡志」に「東限二淀川、西限片岡村、南限片岡界馬転、北限下八川、東西十一町南北五十町、其土多砂」とある。中世は吾川郡片岡かたおか本村に含まれ、天正一八年(一五九〇)の吾川郡片岡本村地検帳に「黒瀬村」および「黒瀬分」がみえ、すべて西古味にしこみ名。同地検帳にある小地名みや奈路なろ・ウノハヱは通称みや奈呂なろ鵜の林うのはえとして現存。

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]加賀市黒瀬町・吸坂町すいさかまち

大聖寺だいしようじ川左岸、当村ほか三ヵ村の出村である吸坂の南に位置し、西側は山地。「天文日記」天文五年(一五三六)四月二日条に「江沼郡黒瀬、堂のまへ寄進料」七〇〇文(天文三年・同四年分)を上納したことがみえる。永正三年(一五〇六)の一向一揆の際、越前に出陣した江沼えぬま郡の将に黒瀬の名があり、享禄の錯乱では、享禄四年(一五三一)八月一七日超勝寺方七千余騎が「山田房主・黒瀬覚道退治ノタメ」江沼郡に押寄せたので、光教寺顕誓・黒瀬円鏡らは着津つきづ(現小松市)の合戦でこれを撃退、ほかに黒瀬藤兵衛・同五郎左衛門・同左近四郎らの名が知られる(朝倉始末記)

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]富山市黒瀬

熊野くまの川右岸に位置し、村内を川が流れる。両川は村の北西端で神通川に合流する。北は二口ふたくち村・下黒瀬村。かつては黒瀬千石と称され、朝廷へ貢物を献じていたが、天正年中(一五七三―九二)の神通川の流路変化により下黒瀬村、婦負ねい島黒瀬しまくろぜ(現婦中町)を分村したという(越中志徴)。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高八五七石余、田方五六町八反余・畑方三反余、新田高九七石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高九四一石、免四ツ一歩、小物成は野役二匁・鮭役五二匁・鱒役六匁・鮎川役六二匁・猟船櫂役一〇匁。

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]作手村黒瀬

田原たばら村の北、西は羽布はぶ(現東加茂郡下山村)に接し、北のともえ川を境として善夫ぜんぶ村と接する。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領となり、享和三年(一八〇三)より平藩安藤対馬守領、文久二年(一八六二)より幕府領に復した。

慶長八年の検地帳は存在しないが、寛永一八年(一六四一)の実情を示す本田畑は、田二町余・二三石余、畑九反余・九石余であり、本郷付近の字下貝津しもがいつ西川にしがわなどに分布していた。その後寛文五年(一六六五)までに田二町一反余・二一石余、畑三反余・三石余の新田畑が開かれ、おもに西部の小耕地こごうち(現字子合知)と南部の丹毛たんもう付近が開発された。

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]美津島町黒瀬

昼浦ひるがうら村の南にあり、南北に深く湾入した洲藻すも浦に臨む。浦の西側のじよう山に古代金田かねた城が築かれた。皇后こうご崎に神功皇后の腰掛けたという皇后石がある(楽郊紀聞)。安産の神として信仰される黒瀬観音堂の銅造如来坐像(像高四三・八センチ、県指定文化財)は統一新羅時代の仏像とされ、火中痕や歪みが残るが、韓国にも例がない傑作という。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「くろせ」とある。寛文二年(一六六二)の検地帳に与良よら郡黒瀬村とみえ、高一一石余。

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]安芸市黒瀬

伊尾木いおき川中流の本村と、江川えがわ川上流の番匠ばんじよう丸石まるいし雨谷あまだにの集落を村域とする。北は大井おおい村、南は入河内にゆうがうち村に接し、本村から川沿いに別役べつちやく村を経て阿波国に至る道が通る。延慶元年(一三〇八)二月付で安芸親氏が城普請に百姓の出役を求めた城普請定書(安芸文書)に、伊尾木川沿いの七名のなかに「黒瀬名」がみえる。長宗我部地検帳では天正一七年(一五八九)の東山八名地検帳に黒瀬名がある。

元禄郷帳によると本田高四四・五三二石。新田は元禄地払帳では一・六石、幕末には一六三・六七石と大幅に増加(明治三年郷村高帳)

黒瀬村
くろぜむら

[現在地名]丹波町字下山しもやま

十勢じつせ村の北に位置し、須知しゆうち野を北流し山峡を抜け出た由良川支流高屋たかや川の東岸に広がる村。北西部に集落を形成し、東方には高原状台地が続いている。東は角本つのもと(現日吉町)、西は高屋村知野部ちのべ村、北はわらび村。園部藩領。

元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の村高は四一石余、天保郷帳では七二石余となっている。

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]松任市黒瀬町

小川おがわ村の南に位置し、山島やまじま用水が流れる。村名は寿永二年(一一八三)の源平合戦のおり手取川の洪水があり、一夜明けて川の水が引いたところ瀬の一ヵ所が黒くなっていたことに由来すると伝える(加賀志徴)。中世は笠間東かさまひがし保のうちで、至徳二年(一三八五)一〇月七日の足利義満御判御教書案(南禅寺文書)に「笠間東保内黒瀬猿平五郎名」とみえ、足利義満は同地の地頭笠間用盛を改易し寺家に付与している。正保郷帳では高四六一石余、田方二八町九反余・畑方一町八反、新田高三〇石余(免二ツ八歩)

黒瀬村
くろせむら

[現在地名]伊勢市黒瀬町

勢田せた川下流東岸にある。山田から二見浦ふたみのうら(現度会郡二見町)へ至る際、当地を通る。集落の東に条里遺構が残る。長寛二年(一一六四)一二月二五日の田畠売券案(光明寺古文書)に、「継橋郷黒瀬村字間黒生」にある二段の治田について「右件治田、元者、度会氏六氏先祖相伝治田也」と記されている。承元三年(一二〇九)の度会吉富治田売券(同文書)、文永一一年(一二七四)の荒木田則末田畠等処分状案(同文書)、同年の度会某治田売券(同文書)にも「継橋郷黒瀬村」の記載があり、当地の字但馬や字小知尾付東が処分の対象となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報