遠佐郷(読み)おさごう

日本歴史地名大系 「遠佐郷」の解説

遠佐郷
おさごう

和名抄」東急本が「表佐」と表記するのは、万葉仮名としての「遠」は「袁」とも書かれるので、それが「表」と誤ったあとのかたちであろう。郷名の表記のままオサとよむ。このよみから「濃飛両国通史」や「日本地理志料」は曰佐氏との関係を想起している。ちなみに筑前国那珂郡曰佐郷を高山寺本は「乎佐」と訓じている。曰佐氏は渡来人系で、訳語おさの任をもって朝廷に奉仕した。遠佐と曰佐が関係あるとすれば、当郷は曰佐氏の拠所であった可能性もある。また「続日本紀」天平宝字五年(七六一)正月九日条には、新羅征討の準備として美濃・武蔵国の少年二〇人ずつを選び、新羅語を習わせたとあるが、関連があろうか。

遠佐郷
おさごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが、オサであろう。円山まるやま川の支流小佐おさ川流域の現八鹿ようか町小佐を遺称地とし、一帯に比定される。平城宮跡出土木簡に「但馬国養父郡老左郷赤米五斗」と記されたものがあり、続けて「村長語ア広麻呂」「天平勝宝七歳五月」とある。この「老左郷」と遠佐郷は同一郷であろう。元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)の但馬国養父郡の所領の記事に、「十一条十四里三石垂水田二段二百六十二歩」と同里「九石垂水田九十八歩」の北限は語部氏守の墾田であると記す。

遠佐郷
おさごう

「和名抄」東急本は遂佐郷とし、訓は諸本とも記載がない。「大日本史」国郡志がいうように曰佐氏と関係するとすれば訓はヲサで、用字はヲの音である遠佐が本来のもので、遂は遠の誤写ということになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報