身延道(読み)みのぶみち

日本歴史地名大系 「身延道」の解説

身延道
みのぶみち

駿河と甲斐甲府を結ぶ道。甲州側では駿州往還河内かわうち路という。近世において駿河から甲斐、さらには信濃へと通ずるいわゆる脇往還として「駿甲脇往還」などとよばれたが、他方で甲斐身延山久遠くおん寺への参詣道としての性格も強く、身延道と称された。身延道は甲州万沢まんざわ(現山梨県富沢町)から甲府に至る順路は同一であるが、駿河から万沢へ出る際には、次のような三つの道筋があった。西からあげると、第一は興津おきつから小島おじま宍原ししはら(以上、現清水市)を経て万沢へ、第二は由比ゆい(現由比町)から内房うつぶさ(現芝川町)を経て万沢へ、第三は岩淵いわぶちから松野まつの(ともに現富士川町)・内房を経て万沢へというものであった。

このうち第二の道筋は、とくに戦国期に武田氏の支配が駿河にまで及んで穴山信君江尻えじり(現清水市)城主となったこともあり、かなり整備されたようである。すなわち信君は天正五年(一五七七)一二月二一日に伝馬法度を定めており(「穴山信君伝馬法度」朝夷一郎氏所蔵文書)、同八年八月一四日には江尻から甲府までの各宿に伝馬一疋を出すように命じているが、各宿とは江尻・興津由比・内房・万沢、南部なんぶ(現山梨県南部町)下山しもやま(現同県身延町)岩間いわま(現同県六郷町)・甲府であった(「穴山信君伝馬手形写」甲斐国志)。しかし同一〇年に武田氏が滅亡するとこのルートの利用は後退し、近世にはもっぱら第一および第三の道筋が主要なものとなったため、ここでは便宜上、前者を「身延道興津筋」、後者を「身延道岩淵筋」とよぶこととする。

身延山への道程は、興津筋の場合は宍原へ四里、万沢へ七里、南部へ一〇里、身延までは一三里であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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