貫休(読み)かんきゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「貫休」の意味・わかりやすい解説

貫休
かんきゅう
(832―912)

中国、唐末五代の僧。婺州蘭渓(むしゅうらんけい)(浙江(せっこう)省金華県)の出身。晩年の10年を王建(847―918)に厚遇されて蜀(しょく)で過ごしている。俗姓は姜(きょう)氏。字(あざな)は徳隠。禅月大師と号し、詩名高く、書に優れ、道釈画を描き、とくに羅漢(らかん)画で知られる。その羅漢は、夢で感得したと伝え、龐眉大目(ほうびだいもく)、胡貌梵相(こぼうぼんそう)といわれた怪奇な形相で、南宋(なんそう)末には多く模倣されて、日本にも禅月様として、水墨系のもの(根津美術館本など)と着色十六羅漢(御物本など)の2系統の伝貫休筆『羅漢図』が伝来している。詩文集に『禅月集』があり、一部を欠くが伝存している。

[星山晋也 2017年1月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「貫休」の意味・わかりやすい解説

貫休 (かんきゅう)
Guàn xiū
生没年:832-912

中国,唐末五代の僧。詩と画をよくした。蘭渓(浙江省)の人で,幼少で出家し,江南の地を遍歴,晩年は前蜀の王建に庇護され,禅月大師の称号を受けた。夢幻的な作風の詩を作り,詩集に《禅月集》がある。絵画は羅漢画が得意で,江南地方で当時流行していた水墨画の表現をとり入れ,夢で感得した像容をもつ作品が評判となった。いわゆる禅月様羅漢はその画風を伝えるものであろう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「貫休」の意味・わかりやすい解説

貫休
かんきゅう
Guan-Xiu

[生]太和6(832)
[没]永平2(912)
中国,晩唐,五代の詩画僧。蘭渓 (浙江省金華) の人。俗姓姜氏。五代の混乱期に各地を遍歴し国主の庇護を受けたが,晩年天復3 (903) 年,蜀 (四川省) の成都に入って王建より禅月大師の称号を受けた。詩人としてもすぐれ,詩集に『禅月集』があるが,水墨画を得意とし,いわゆる応夢羅漢 (夢で見た 龐眉大目〈ほうびたいもく〉,胡貌梵相〈こぼうぼんそう〉と呼ばれる羅漢) を描いた。日本に将来された『十六羅漢図』 (宮内庁三の丸尚蔵館) はのちの模本で,怪異風貌に禅月様羅漢の特色があるが,彼の粗放な水墨画風はみられず,伝称作品の水墨の『羅漢図』 (1幅,根津美術館。3幅,藤田美術館) にむしろその描写形式が残されている。

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百科事典マイペディア 「貫休」の意味・わかりやすい解説

貫休【かんきゅう】

中国,唐末五代の禅僧で詩画にすぐれた。字は徳隠,号は禅月大師。浙江【ぶ】州の人。7歳で出家し,後年,三教(儒仏道)一致の理想社会を説いて諸国を流浪,蜀で優遇された。詩名は15歳ごろから高く,水墨画は呉越を放浪中に習得してもっぱら〈十六羅漢図〉を描き,その怪異な風貌をもつ様式は後世〈禅月羅漢〉と称された。

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