西岸寺(読み)せいがんじ

日本歴史地名大系 「西岸寺」の解説

西岸寺
せいがんじ

[現在地名]飯島町大字本郷 本郷三

村の南部にあり、与田切よたぎり川の扇状地の右翼扇端にある本郷ほんごう城跡の北西の一角にあたり、本城・登(外)城などの北西三〇〇メートル余の所にある。東方は数段の段丘をつくって天竜川が南流し、南側は子生沢こおみざわ川が深い谷をつくっている。臨照山、臨済宗妙心みようしん寺派で、本尊は聖観音菩薩。

応安六年(一三七三)成立の至鈍置文(西岸寺文書)によると開山大覚禅師であるが、康安元年(一三六一)に大徹至鈍が再興し、応安元年に飯島為光・総昌・正運らが寺領を寄進し、同年四月一七日に幕府から諸山に列せられ、寺領を安堵されている。

西岸寺
さいがんじ

[現在地名]熊本市下通二丁目

旧西岸寺町の南西端にあり、西隣は泰巌たいがん寺。祥雲山と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来。「国誌」に「慶長年中往生院三世照蓮社大越寂誉上人開基之、一反八畝免許地也」とある。当寺蔵の由来記によると創建は安貞二年(一二二八)で、開基は教弁坊、寛永年中(一六二四―四四)の泰岩を中興とする。泰岩は俗名を島左近といい、明智氏の重臣筒井氏の家老であったが、筒井氏滅亡後石田三成の軍師として活躍、関ヶ原の戦に敗れ、鎌倉光明こうみよう寺で出家し泰岩と改めたという。

西岸寺
さいがんじ

[現在地名]久留米市瀬下町

瀬下通せのしたとおり町に並ぶ三ヵ寺のうち東端にある。宝樹山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。鎮西本山善導ぜんどう寺末。寛文十年寺社開基に万人山功徳院と号するとあり、寛永元年(一六二四)筑後川の川湊である洗切あらいきりに孝誉存覚が創建、正保四年(一六四七)御船蔵が近いため京隈小松原きようのくまこまつばらに移転した。

西岸寺
さいがんじ

[現在地名]武雄市橘町芦原字鳴瀬

杵島きしま山北端の西麓にある。山号は鳴瀬山。浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。

弘治元年(一五五五)大渡おおわたり(現杵島郡北方町)に春山和尚が創建したが、佐賀藩主の要請により二代住職貞玄和尚の時成瀬なるせに移転、成瀬宿の本陣となった。本堂と庫裏のほかに客間を新築したが、この費用は佐賀藩が支出し、本陣の客間とした。柱・なげし・天井棹などすべて四隅に木肌を残した手斧仕上げの檜材である。寺宝には親鸞真筆といわれる浄土和讃と蓮如の真筆六字名号があり、客間に掲げられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「西岸寺」の解説

西岸寺

(長野県上伊那郡飯島町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西岸寺の言及

【瑞穂[町]】より

…米作,野菜栽培のほか丹波マツタケ,丹波栗の主産地として,増産がはかられている。高屋川に合流する質志(しずし)川の東岸に鎮座する酒治志(しゆじし)神社は《延喜式》神名帳の酒治志(さかちしの)神社に比定され,中台の曹洞宗西岸寺には和泉式部の墓と伝える五輪塔がある。質美八幡宮の秋の例祭には山車や屋台が社前に参入し,参詣者でにぎわう。…

※「西岸寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」