瀬下町(読み)せのしたまち

日本歴史地名大系 「瀬下町」の解説

瀬下町
せのしたまち

[現在地名]久留米市瀬下町

久留米城郭の南西にあり、ほかの城下町と離れる。筑後川左岸の川湊。正保二年(一六四五)三潴みづま大石おおいし村域に町割を施し、洗切あらいきり町人を移住させたが、寛永二〇年(一六四三)「瀬下に町仰付けられ、地引き有り」ともいうので(石原家記)、すでに移転の動きがあった。当町ははま町・とおり町・よこ町・うら町からなるが、正保三年には浜町三町、横町裏町に家が立並び、横町・裏町の町人は久留米藩から銀子を拝領、浜町の町人には代々浜銭割賦が課せられていたという。寛文四年(一六六四)には瀬下大石口より通町、京町きようまち口まで家が立並んでいる。延宝四年(一六七六)の町別当の報告では瀬下町家数二〇七軒、天和元年(一六八一)には家数二〇五軒。町別当は町の建設期から渡屋であったが、元禄四年(一六九一)別当渡屋六兵衛と表屋次郎兵衛が口論公事に及び、尼御前あまごぜ社の社頭で対決がなされ、渡屋は閉門となり、町別当に山崎屋九郎右衛門が任命された。正徳四年(一七一四)渡屋六兵衛が町別当に復職幕末に至る。享保二年(一七一七)京隈小松原きようのくまこまつばらからの出火で瀬下通町の大半が焼失、家約三〇〇軒、通町の三ヵ寺も焼けたという。同年一〇月浜町の木屋安右衛門宅から出火、中ノ丁・上ノ丁、横町・新町、および京隈口まで約一五〇軒が焼失(以上、同書)。享和二年(一八〇二)裏町・横町・浜町にわたる火事で一五四軒を焼く(米府年表)。文化六年(一八〇九)瀬下シロリ町から出火、浜町・通町・横町・裏町・大石村・京隈村分を合せて一七九軒を焼失。文政一二年(一八二九)通町正蓮しようれん寺際に火の見梯子・喚鐘が設置された(以上、同書)。久留米領内の物資は瀬下湊から川舟で若津わかつ(現大川市)まで運ばれ、そこで海船に積替えられた(「旅船出入帳」三枝文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の瀬下町の言及

【久留米[市]】より

…町人町は東西に長くのびる長町(1~10丁)を中心として,新町,紺屋町,両替町など,そして南にのびる柳河街道に沿って原古賀町が作られ,旧来の町人のほかに各地の商工業者を移り住ませた。また城下の南西部の瀬下(せのした)に河港が建設され,旧河港の洗切(あらいきり)の町民がそこへ移されて瀬下町を構成した。そして長町7丁目の北側に26ヵ寺を集めた寺町が作られた。…

※「瀬下町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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