庄内砂丘(読み)しようないさきゆう

日本歴史地名大系 「庄内砂丘」の解説

庄内砂丘
しようないさきゆう

県の日本海沿岸のうち、鶴岡市湯野浜ゆのはまから遊佐ゆざ吹浦ふくらまでの約三五キロにわたって海岸沿いに横たわる砂丘。二条から三条の並行砂丘が幅二―三キロの帯状をなし南北に延びる。海岸は最も高い所で標高六五メートル。砂丘は海岸近くの細砂を多量に供給する第三紀層と、北西の季節風に加えて最上川による砂礫搬出などによって形成された。最上川河口には当砂丘唯一の酒田港がある。

現在砂丘になっている地域は古くは森林に覆われ、縄文時代から居住地となっていた。大正一〇年(一九二一)あか川の分流工事の時、酒田市黒森くろもり地区の砂丘三〇メートルの底からは栗・楢・柳など樹木の根株や倒木が、地盤上からは縄文晩期から弥生時代にかけての土器や石斧が多数発見された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「庄内砂丘」の意味・わかりやすい解説

庄内砂丘
しょうないさきゅう

山形県の日本海沿岸に延びる砂丘。庄内平野の西縁を限り、鶴岡市(つるおかし)湯野浜から飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)まで約35キロメートルに及ぶ。最大幅約3キロメートル、面積約55平方キロメートルの日本有数の砂丘で、2~3列の砂丘列からなる。高度は中央部で64.3メートル、南端の加茂台地を被覆する部分では100メートルに達する。砂丘の形成は数千年前ごろからで、黒色砂層を挟み下部の古砂丘と上部の新砂丘が重合した構造をもつ。季節風により飛砂が激しく不毛の地であったが、近世中期以降、佐藤氏、本間氏ら富商によりクロマツなどの植林が行われ砂防林が形成され、砂丘列間の低地は地下水灌漑(かんがい)による耕地化も進み、現在はメロンスイカチューリップなどの栽培が盛んである。

中川 重]

『『庄内砂防林史』(1957・秋田営林局)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「庄内砂丘」の意味・わかりやすい解説

庄内砂丘
しょうないさきゅう

山形県北西部,庄内平野の日本海岸にある砂丘西山とも呼ばれ,南の加茂台地 (鶴岡市) から北へ鳥海山麓の遊佐町吹浦 (ふくら) にいたる約 30kmの長大な砂丘。南は幅広く約 3kmもあるが,北へいくに従って狭くなる。3列の砂丘群から成り,東側のものが最も大きい。最高点は 100m余で,砂丘としては日本有数の高さである。総面積 55.44km2で,耕地化が進み,メロンなどの果樹花卉が栽培される。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の庄内砂丘の言及

【庄内平野】より

…北東部に鳥海山,南東に月山があり,東部は断層崖で出羽山地に接する。西部は日本海に臨み,延長約35km,最大幅約3kmの庄内砂丘がある。平野は南北約50km,東西は南部で16km,北部で6kmで,砂丘部を除いて約530km2の面積をもつ県内最大の平たん地である。…

※「庄内砂丘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」