荻原村(読み)おぎわらむら

日本歴史地名大系 「荻原村」の解説

荻原村
おぎわらむら

[現在地名]入間市宮寺みやでら

東流する加納かのう川沿いにあり、北は大森おおもり村。青梅道が東西に通る。大森村との境は錯雑し、元禄三年(一六九〇)の検地実施までは大森分を含んでいたらしい。入間郡山口やまぐち領に属した(風土記稿)。慶長一八年(一六一三)九月、伊達与兵衛(房実)が一〇〇石の知行地を宛行われた(「諸家系譜」内閣文庫蔵)。田園簿記載の宮寺町のうち旗本伊達領二〇〇石の一部に相当するか。元禄三年字一本松いつぽんまつほか一四ヵ所で検地が実施され、反別二七町七反余(明治一七年頃「宮寺村地誌」大野家文書)元禄郷帳では宮寺を冠して荻原村とあり、二一七石余。

荻原村
おぎわらむら

[現在地名]犬飼町柚野木ゆのき 荻原

久原くばる村の南にある。蛇行しながら北流する大野川に東から流れてきた野津のつ川が合流する地点の南側に位置し、西方大野川対岸は田原たわら村。江戸時代を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には萩原村が鍋田なべた(現野津町)など二ヵ村分と一括された一冊が含まれ、この萩原村が当村分にあたる。村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に荻原村とみえ、鍋田村組に属し高二一石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一五石余・出来高六石余、田方九石余・畑方一二石余、日損所と注記される。正保郷帳では野津之のつの院に属し、高一四八石余(田高五一石余・畑高九六石余)には松原まつばら村分などを含むとみられる。

荻原村
おぎはらむら

[現在地名]東村荻原

現東村の南西端に位置し、北東は花輪はなわ村、北西は上田沢かみたざわ(現黒保根村)、南西は水沼みずぬま(現同上)と田沢川をもって境し、北東は渡良瀬川中央をもって小夜戸さやど村と接する。渡良瀬川沿いに銅山あかがね街道が通る。「天保巡見日記」に水沼村を出て「壱里程行て荻原村なり、この辺すへて渡良瀬川添山坂道、山水之奇観を尽せり、一景を図す」とあり、「勢多郡荻原村遠望の図」二図が描かれている(天保九年四月一八日条)

荻原村
おぎはらむら

[現在地名]上松町大字荻原

上松と須原すはらの間にある村で、中山道沿いに、荻原村・立町たちまちが街村をなし、上松寄りに小野おの宮戸みやど、須原寄りに倉本くらもと池尻いけじりなどの集落が散在。また一段高い、段丘上のいわゆる木曾古道沿いには、吉野よしの東野とうのの集落がある。

荻原や立町が文献にみえるのは、宝永三年(一七〇六)の「木曾考」がこの地に居住した木曾義昌の家臣をあげているのに始まる。荻原村の氏神として、荻原に鹿島かしま神社があるが、須原・野尻の鹿島神社とともに常陸の土豪で小木曾おぎそ庄の地頭を務めた真壁氏との関連がうかがわれるもので、立町(館町)などの地名とともに注目したい神社である。

荻原村
おぎはらむら

[現在地名]出雲市荻杼町おぎとちちよう

斐伊川左岸にあり、東は杼島とちじま村、南は中野なかの村。宝徳二年(一四五〇)一一月一三日に京極持清が牛尾忠実に与えた安堵状(日御碕神社文書)に「出雲国神門郡荻原総領分内田地壱町、并屋敷壱所事」とみえる。一五世紀後半には荻原村の大部分は塩冶氏の支配地と推測されるが、部分的には牛尾氏・三沢氏など国人領主の所領も含まれていた。そしてやがてこれらの一部が日御崎社(日御碕神社)に寄進されていく。寛正三年(一四六二)八月二八日塩冶豊高は郷内の「三崎神田」三ヵ所を安堵したが(同文書)、そのなかに「壱段 荻原村、坪ハ三ノ坪」が含まれていた(同年九月二五日「日御崎社神田打渡状」同文書)

荻原村
おぎわらむら

[現在地名]吉良町荻原

町域のほぼ中央に位置し、朝鮮ちようせん川と矢崎やさき川の間に展開する沖積地に開けた村。北は冨田とみだ村に接し、東は矢崎川をもって饗庭あいば村と境し、南は吉田よしだ村に、西は大島おおじま村に接する。「三河国名所図絵」に、「藻塩草萩原郷三河とあるは、荻の誤りなるへし、又類似名所外集、又実方朝臣家集等に三河とせり、又松葉集、又名寄等、いまた尠へずとあり、家集をき原ノ里三川」とある。この「をき原ノ里」は、「夫木抄」に実方朝臣の歌として、「風ふかぬうらみやすらむうしろめたのとかにおもへ荻原のさと」とある。

荻原村
おぎはらむら

[現在地名]大田市水上町荻原みなかみちようおぎはら

邇摩にま郡の南東端、忍原おしはら村の南西に位置し、南の邑智おおち郡から銀山への関門となる地で、中世末の銀山争奪戦でも重要な役割を果したとされる。正保国絵図に村名がみえ、高二七三石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方二一九石余・畑方五四石余、ほかに銀山神宮寺領一石五斗がある。年貢高は米九六石余・銀四三八匁余。家数は本家二五・門屋二九、人数二二〇。猟師鉄砲一挺がある。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数六一・人数二一三、牛三六。

荻原村
おぎわらむら

[現在地名]夷隅町荻原

能実のうじつ村の南西に位置し、南東の深谷ふかや村境に根方ねがた(九六・二メートル)がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千六三〇石。慶長二年(一五九七)一一月二〇日の荻原之郷検地帳(船橋市西図書館蔵)一九冊のうち一冊が残り、一筆の記載形式は耕地の縦横の間数、品等・反別・分付主・作人となっており、御蔵入とあるのは徳川家康直轄領をさすか。

正保国絵図では高一千六二〇石。

荻原村
おぎわらむら

[現在地名]明科町荻原

松本藩領安曇あずみ池田いけだ組の一村。さい川の左岸段丘上に位置し、東は犀川を隔てて上生野かみいくの村に対し、北は金井沢かないざわ村、南は塩川原しおがわら村に接する。

天正検地の際は七四石一斗四升四合であったが、「信府統記」によると、享保九年(一七二四)当時の石高は二五九石六升二合である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報