若松城跡(読み)わかまつじようあと

日本歴史地名大系 「若松城跡」の解説

若松城跡
わかまつじようあと

[現在地名]池田町大字池田 東町・吾妻町・二丁目・三丁目

松本藩主戸田康長は、元和五年(一六一九)松本領七万石のうち、池田・松川まつかわ大町おおまち三ヵ組一万五千石を分け、池田の地に城を築き、松本城は二子忠光にゆだね、自分は三子康直を連れて池田の城に隠居すべく築城工事を開始した。外堀の周囲は四町四面といわれ、隠居所としては広壮な規模をもっていた。現在の池田の町並の東半がおおかたこの範囲といえる。築城工事は、四方の外堀のうち南堀だけを残して工事が進み、穀蔵も建ち、完成も間近という寛永六年(一六二九)二子忠光が急逝し、これにより三子康直が松本藩主を継ぐことになり、結局康長の池田入りは沙汰やみとなってしまった。

若松城跡
わかまつじようあと

洞海どうかい湾の湾口部の中ほどにあったなか(中ノ島)に築かれた城で、中島なかのしま城ともいう。黒田氏の六端城の一。黒田氏入部以前の永禄一二年(一五六九)には、毛利方の小田(小田村)備前守が中島に館を構え、同年一〇月九日には大友方の田原親宏勢と「備前守宅所鳥羽田村」や東小倉(現小倉北区)などで合戦を行っている(同年三月二〇日「小早川隆景・吉川元春連署書状」萩藩閥閲録二、同年一〇月一三日「田原親宏被官分捕手負人数注文」大友家文書録/大分県史料三二)。なお「地理全誌」によると、永正年中(一五〇四―二一)には竹内治部が中島に居宅を構えていたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「若松城跡」の解説

わかまつじょうあと【若松城跡】


福島県会津若松市追手町ほかにある城跡。1384年(至徳1)に蘆名(あしな)直盛が開いた東黒川館が始まりといわれる。会津地方を治める蘆名氏歴代の本拠となり、黒川城と呼ばれた。戦国時代に、伊達政宗が蘆名氏を攻略して入城、次に1590年(天正18)、蒲生氏郷(がもううじさと)が入城して、会津の領主となった。このとき改修・増築を行い、1593年(文禄2)に7重の天守が完成した。城下も「若松」と名を変えて、城は鶴ヶ城となった。1611年(慶長16)の大地震で、石垣、塀、櫓(やぐら)が崩壊し、天守も傾いたと伝えられる。1627年(寛永4)に加藤嘉明(よしあきら)が入り、その後、天守は5重に改築され、現在の姿となった。1643年(寛永20)に保科正之が入封して以後、保科・松平家が220年間続き、城は会津城と呼ばれた。1868年(明治1)の戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に攻められ、1ヵ月籠城したがその間建物の焼失などもなく、その堅固さがあらためて評判になった。しかし、敗れたのち、1874年(明治7)に反新政府の象徴としてすべて取り壊された。1965年(昭和40)、天守などが復元され、鶴ヶ城公園として一般に公開されている。JR磐越西線会津若松駅からまちなか周遊バス「鶴ヶ城北口」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報