舎人親王(読み)トネリシンノウ

デジタル大辞泉 「舎人親王」の意味・読み・例文・類語

とねり‐しんのう〔‐シンワウ〕【舎人親王】

[676~735]天武天皇の皇子。日本書紀編纂へんさんを主宰し、養老4年(720)に完成。藤原不比等の死後、知太政官事ちだじょうかんじとなり、死後、太政大臣を贈られた。

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精選版 日本国語大辞典 「舎人親王」の意味・読み・例文・類語

とねり‐しんのう ‥シンワウ【舎人親王】

天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の女新田部皇女。養老二年(七一八一品に昇り、同三年元正天皇の詔によって、皇太子の補佐役となる。同四年、先に勅命を受けて太安万侶らとともに編修した「日本書紀」を完成させて奏上。同年知太政官事となって政務を総覧した。天武天皇五~天平七年(六七六‐七三五

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改訂新版 世界大百科事典 「舎人親王」の意味・わかりやすい解説

舎人親王 (とねりしんのう)
生没年:676?-735(天武5?-天平7)

天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子には御原王,池田王,船王,大炊王がおり,大炊王が淳仁天皇となった759年(天平宝字3)崇道尽敬皇帝と追号された。舎人皇子とも書き,元正~聖武朝に重用され,《万葉集》に作歌がある。官位は695年(持統9)浄広弐から718年(養老2)一品に至る。719年新田部親王とともに皇太子(聖武)の輔翼を命ぜられ,内舎人2人,大舎人4人,衛士30人を賜い,封戸は2000戸に達した。翌年5月〈日本紀〉30巻系図1巻を奏上し(《日本書紀》),8月右大臣藤原不比等の没後,知太政官事となる。724年(神亀1)聖武天皇即位に封500戸を増し,729年(天平1)左大臣長屋王の変では王の窮問にあたり,さらに光明子立后の宣命を宣した。735年9月新田部親王を弔ったが,同年11月みずからも没し,太政大臣を贈られた。鑑真来朝の結果を生む戒師招請は,親王の発議による。子孫非業の死をとげるものも多かったが,中には清原真人となったものもあり,右大臣夏野はその一人である。
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朝日日本歴史人物事典 「舎人親王」の解説

舎人親王

没年:天平7.11.14(735.12.2)
生年:天武5(676)
天武天皇の第3子で,『日本書紀』の編纂の責任者として著名。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子には大炊王(淳仁天皇),船王,池田王らがいる。奈良時代初期には,皇室(宗室)の長老として尊敬された。親王が編纂責任者となった『日本書紀』は養老4(720)年に全30巻,系図1巻として完成した。同年,右大臣藤原不比等が没すると,知太政官事となり太政官を統轄する立場に任命された。元正,聖武2代の天皇に皇親として仕えて,奈良時代前半の皇親政治の中心的存在であった。神亀5(728)年に詔を出したときも,左大臣長屋王よりも上の位置に署名して希有なこととされているが,天武天皇の皇子として新田部親王と並んで政治的権威を持っていた。また『万葉集』にも「大夫や片恋せむと嘆けども醜の大夫なほ恋ひにけり」など3首の歌が残されており,歌人としての素養もあった。没後,太政大臣を贈られた。皇子のうち大炊王が淳仁天皇として即位(758)したため,翌年父として「崇道尽敬皇帝」の称号を追贈されている。なお『延暦僧録』によると親王の請いによって,僧栄叡が唐へ渡って,戒律を伝える僧を求め,鑑真渡来の契機をつくったということを伝えている。

(鬼頭清明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「舎人親王」の意味・わかりやすい解説

舎人親王
とねりしんのう
(676―735)

天武(てんむ)天皇の第三皇子。母は天智(てんじ)天皇の娘新田部(にいたべ)皇女。知太政官事(ちだいじょうかんじ)穂積(ほづみ)親王の亡きあとは皇親の長老として重んぜられ、新田部親王とともに皇太子首(おびと)親王(聖武(しょうむ)天皇)を輔翼(ほよく)する責務を負った。またこのころ右大臣藤原不比等(ふひと)の領導のもとに、律令(りつりょう)の改修(養老(ようろう)律令)や正史の編纂(へんさん)がなされたが、なかでも正史の編纂には自ら主宰者となり、720年(養老4)に至り『日本紀(にほんぎ)』30巻(日本書紀)、系図一巻を撰上(せんじょう)した。不比等亡きあと知太政官事に任ぜられ、やがて729年(天平1)に起きた長屋王の変には王の罪を糾明し、ついで光明(こうみょう)皇后の冊立(さくりつ)を宣した。第7子が淳仁(じゅんにん)天皇になると崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝の称号を贈られた。

[押部佳周]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「舎人親王」の意味・わかりやすい解説

舎人親王
とねりしんのう

[生]天武5(676).飛鳥
[没]天平7(735).11.14. 奈良
奈良時代の皇族政治家。天武天皇の第3皇子,母は天智天皇の子新田部皇女。刑部親王の死後は,新田部親王とともに皇室の長老として重んじられ,養老2 (718) 年一品。『日本書紀』の編纂を主宰し,同4年に完成,紀 30巻,系図1巻を奏上した。この年藤原不比等没後,知太政官事に就任。死に際し太政大臣を贈られた。子の大炊王が淳仁天皇となったので,崇道尽敬皇帝の称が追号された。歌人としても知られ,『万葉集』に短歌3首入集。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「舎人親王」の解説

舎人親王 とねりしんのう

676-735 飛鳥(あすか)-奈良時代,天武天皇の皇子。
天武天皇5年生まれ。母は新田部(にいたべの)皇女。「日本書紀」編修事業の総裁をつとめ,養老4年(720)完成させる。同年藤原不比等(ふひと)の死後知太政官事となり,聖武天皇の政治を補佐。一品(いっぽん)。天平(てんぴょう)7年11月14日死去。60歳。死後太政大臣をおくられ,子の大炊(おおい)王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位すると,天平宝字3年(759)崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝の追号をうけた。
【格言など】大夫(ますらを)や片恋ひせむと嘆けども鬼(しこ)の大夫なほ恋ひにけり(「万葉集」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「舎人親王」の解説

舎人親王
とねりしんのう

676~735.11.14

天武天皇の皇子。母は天智天皇の女新田部(にいたべ)皇女。誕生順では6番目と考えられるが,「続日本紀」は第3皇子とする。子の淳仁(じゅんにん)天皇が即位した後,759年(天平宝字3)崇道尽敬(すどうじんけい)皇帝と追尊された。8世紀前半,元正朝から聖武朝にかけて新田部親王とともに政界に重きをなし,720年(養老4)藤原不比等(ふひと)の死後,知太政官事に任じられた。また「日本書紀」編纂の中心ともなった。729年(天平元)の長屋(ながや)王の変では新田部親王とともに王の尋問にあたったが,735年,一品で没した。

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百科事典マイペディア 「舎人親王」の意味・わかりやすい解説

舎人親王【とねりしんのう】

天武天皇の皇子。母は天智天皇の女新田部(にいたべ)皇女。《日本書紀》の編纂(へんさん)を主宰し,720年これを完成。同年知太政官事(ちだいじょうかんじ)となる。子の大炊(おおい)王が淳仁(じゅんにん)天皇となると,崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝の追号が贈られた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「舎人親王」の解説

舎人親王
とねりしんのう

676〜735
奈良時代の皇族。『日本書紀』編修の最高責任者
天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の皇女親田部皇女。淳仁天皇の父。『日本書紀』の編纂にあたり,720年これを完成。同年藤原不比等の死後,知太政官事として国政に参与した。死去に際し太政大臣を贈られ,淳仁天皇即位時(759)に崇道尽敬皇帝の号を贈られた。

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世界大百科事典(旧版)内の舎人親王の言及

【知太政官事】より

…8世紀前半期におかれた令外官。大宝令施行直後の703年(大宝3)に刑部(おさかべ)親王が任ぜられ,以後穂積(ほづみ)親王,舎人(とねり)親王をへて745年(天平17)に鈴鹿(すずか)王が没するまで,断続的に存在した。その職掌また令制官職・位階との相当関係も定かではなく,左右大臣等との関連も明らかではない。…

※「舎人親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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