綱木村(読み)つなぎむら

日本歴史地名大系 「綱木村」の解説

綱木村
つなぎむら

[現在地名]三川村綱木

現三川村最北の集落で綱木川沿いに上流から上綱木・中村なかむら・下綱木という(新編会津風土記)新発田しばた街道が南北に通り、北は赤谷あかだに(現新発田市)、南は新谷あらや村、西は古岐ふるまた村の山と接し、東はうまかみ(七五七メートル)など山地。天正一六年(一五八八)五月七日の小田切恒遠定書(二瓶文書)によれば、綱木村の老百姓が小田切恒遠に訴訟を起こし、公事を定めている。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「綱木 弐百拾七石七升」とある。

綱木村
つなきむら

[現在地名]米沢市綱木

せき村の西に位置し、かぶと(一一九九・三メートル)西麓、綱木川沿いの谷間に立地。会津街道が通る。当地は平家の落人が檜原ひばら峠越で入り、平重盛の家来梅津豊後・田中和泉守・今野隼人などが住みついたと伝承されている。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録によれば、大塚将監が上長井庄「つなき」の遠藤又七知行地を与えられている。天正一四年(一五八六)と推定される三月一六日の伊達政宗書状写(政宗君治家記録引証記所収文書)によれば、檜原城塞(現福島県耶麻郡北塩原村)普請のため当村から人足を出させている。

綱木村
つなぎむら

[現在地名]御嵩町上之郷かみのごう 綱木

たに村の北の丘陵部にあり、北は急坂を経て小和沢こわさわ村。上之郷一六ヵ村の一で、元禄郷帳に綱木村とみえ高六六石余、尾張藩領。「濃州徇行記」では田四町五反余・畑一町四反余、百姓控山二町八反余。家数一三・人数五〇、馬四。谷村からの上り坂はウンナイ坂という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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