篠井村(読み)ささいむら

日本歴史地名大系 「篠井村」の解説

篠井村
ささいむら

[現在地名]狭山市笹井ささい

根岸ねぎし村の西、入間いるま川の左岸にある。高麗こま郡に属し、北は同郡芦苅場あしかりば(現飯能市)馬引沢うまひきざわ(現日高市)、南は入間川を隔てて入間黒須くろす村・高麗仏子ぶし(現入間市)、西は同郡野田のだ(現同上)。江戸秩父道が南東―北西方向に、飯能へ向かう道がほぼ東西に通る。中世には佐々井・佐西とも書き、古くは「しのい」ともよんだという(風土記稿)。江戸時代の史料では篠井・笹井の双方の字が用いられている。明徳四年(一三九三)四月日に威徳いとく寺薬師堂(現川島町)奉納の鰐口(善福寺蔵)の銘に「武州高麗郡佐西郷熊野堂権律師良勝」とある。文明一八年(一四八六)聖護院道興は「佐西の観音寺といへる山伏の坊にいたりて」数日滞在した(廻国雑記)

篠井村
しのいむら

[現在地名]宇都宮市篠井町

北は小林こばやし(現今市市)、東は山林を境に冬室ふゆむろ(現河内郡上河内村)、南は大網おおあみ村と接する山村。天正四年(一五七六)宇都宮国綱に従った武士のうちに志野井城主大橋兵部掾がいる(那須記)近世を通じて宇都宮藩領。慶安郷帳に田方三〇六石・畑方二八〇石余とある。元禄九年(一六九六)から日光街道大沢おおさわ宿(現今市市)への助郷を勤め、助郷高は五六七石余(「大沢宿助郷帳」斎藤泰文書)

篠井村
しのいむら

[現在地名]中野市大字篠井

篠ノ井しののい川に沿って立地した集落で、東は新野しんの、北より西は新保しんぼ、南は三ッ和みつわに接している。

本村松代まつしろ城主松平忠輝の蔵入地であったが、元和元年(一六一五)九月忠輝は父徳川家康の勘当により上野藤岡ふじおかに閉居した。同二年正月二三日篠井村ほか六ヵ村は忠輝への扶持米を次のように割り付けられており(「松平忠輝扶持方割付」堀内文書)、これが文献上の初出である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報