箱根八里(読み)ハコネハチリ

デジタル大辞泉 「箱根八里」の意味・読み・例文・類語

はこね‐はちり【箱根八里】

東海道小田原宿から三島宿まで約8里あるところから》箱根路のこと。
[補説]作品名別項。→箱根八里

はこねはちり【箱根八里】

唱歌。明治34年(1901)発表滝廉太郎作曲、鳥居まこと作詞。「箱根の山は、天下けん」の歌い出しで広く知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「箱根八里」の意味・読み・例文・類語

はこね‐はちり【箱根八里】

箱根路のこと。東海道小田原宿から箱根峠を越えて三島宿まで約八里の道のりであったところから呼ばれた。
譬喩尽(1786)一「箱根八里(ハコネハチリ)は馬でも越が越に越れぬ大井川 馬奴哥」

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日本歴史地名大系 「箱根八里」の解説

箱根八里
はこねはちり

江戸時代の東海道小田原宿より箱根宿を経て三島みしま宿(現静岡県三島市)に至る道程をいう。小田原宿から箱根宿まで四里八町、箱根宿より三島宿まで三里二八町、小田原宿より板橋いたばし村・風祭かざまつり村・入立田いりゆうだ(現小田原市)を経て湯本ゆもと村に至り、三枚さんまい橋を渡り、須雲すくも川沿いに湯本茶屋ゆもとちやや須雲川すくもがわ村・畑宿はたじゆくを経て箱根宿に至り、箱根峠を越えて三島宿に至る。

箱根八里の整備は、東海道に一里塚が築かれた慶長九年(一六〇四)頃から始まったらしい。後年の記録ながら小田原宿より箱根宿に至る一里塚は、風祭村内木立榎、湯本茶屋内木立榎、畑宿内木立右樅・左槻、箱根宿内木立まゆみの四ヵ所であった(東海道宿村大概帳)。「徳川実紀」慶長一九年九月一一日条に「このころ箱根路の往還を停廃し、足柄路を通行せしむ」とあり、まだ官道にはなっておらず、箱根路が正式に利用されるのは元和四年(一六一八)幕府が小田原と三島両宿から五〇戸ずつを移し、箱根八里の中間地点に箱根宿を設け、夫食三〇〇俵を与えてからである(風土記稿)。翌五年には宿の東側に江戸防衛のために箱根関所が設置された(「箱根御関所定番人并人見女取扱」東海道箱根宿関所史料集)

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デジタル大辞泉プラス 「箱根八里」の解説

箱根八里

日本の唱歌の題名。作詞:鳥居忱、作曲:滝廉太郎。発表年は1901年。

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世界大百科事典(旧版)内の箱根八里の言及

【箱根峠】より

…標高849m。近世,東海道一の難所であった小田原~三島間の箱根八里の中でも,畑宿(はたじゆく)から箱根峠へ至る上りが最大の難所として知られた。明治以降,箱根八里が利用されなくなって峠は一時さびれたが,明治末に宮ノ下~箱根間の国道1号線,第2次大戦後,箱根新道,芦ノ湖スカイライン,伊豆スカイライン(十国道路)が通じ,交通の要地となった。…

※「箱根八里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」