箕浦村(読み)みのうらむら

日本歴史地名大系 「箕浦村」の解説

箕浦村
みのうらむら

[現在地名]近江町箕浦

顔戸ごうど村の南、天野あまの川右岸に位置。箕浦庄の遺称地で、西に北国街道が通る。応永八年(一四〇一)一一月一〇日の尼女畠地売券(井戸村文書)に「箕浦庄内字八日市場」とみえる八日市場は当地に比定される。同一五年三月一八日の横目定明屋敷売券(同文書)によると「八日市場東地」を横目岩脇定明が井戸村氏に売却している。「木間攫」も「此辺往古坂田郡ノ万物交易ノ市場ナリト云」と記し、毎月八日に開かれたとある。湖北一〇ヵ寺の一つ誓願せいがん寺があったが、江戸時代に廃絶した。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に「長岡内箕浦村」とみえ、高二千二一五石。

箕浦村
みのうらむら

[現在地名]豊浜町箕浦

和田わだ村の西南、郡の最西端にあり、大谷おおたに山の丘陵が海岸線まで迫り海沿いにわずかに平地が開ける。蓑(簑)浦村とも記す。年未詳七月一九日の四郎五郎書状(秋山家文書)に「ミの浦」がみえる。寛永国絵図には「和田蓑浦」とあり、和田郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一六二石余、うち新田悪所九石。同一八年の小物成は綿四二匁、米一石四斗(御菜代)であった(山崎領小物成帳)。「西讃府志」によれば村の広さは東西四〇町五八間・南北三町。

箕浦村
みのうらむら

[現在地名]西郷町加茂かも

岸浜きのはま村の西に位置し、南部は海に面する。慶長一二年(一六〇七)の検地後に加茂村より分村したという。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田畑一一石余・二町九反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一八匁・漁請役七三匁四分・和布二束役四分・鯖二七刺役三匁八分・大鯛九枚役二匁二分余・鯣九連役二匁二分余・鰤八本役九匁六分・核苧五四〇目役一匁四分、家数二五(百姓一八・間脇七)のうち御役目屋敷一八、人数一〇〇、牛一〇、鉄砲一、船数二四。鯛・鰤・烏賊・鯖・飛魚・鮑・栄螺・海苔・和布・荒和布などを水揚げした。ひめみや明神鎮座真言宗西蓮さいれん寺、浄土宗浄運じよううん(浄雲寺)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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