近江町(読み)おうみちよう

日本歴史地名大系 「近江町」の解説

近江町
おうみちよう

[現在地名]金沢市上近江町かみおうみちよう下近江町しもおうみちよう

十間じつけん町の北側に位置し、上・下の二町に分れる。十間町寄りの東西路に沿うのが上近江町、同町の北に並行するのが下近江町。いずれも両側町で本町、両町ともに東は博労ばくろう町の通り、西は西内総構堀に限られる。天正一一年(一五八三)の前田利家入部以前から町立てされていたと伝える。なお下近江町東部北側の東西路沿いは近江町三番丁と称され、同町の西に元光専寺前もとこうせんじまえ(町)が続く。町名は近江国住人が移り住んだことにちなむとか、弓師近江という者が住していたことに由来するなどと伝える(金沢古蹟志)。加越能故事問答(加越能文庫)の寛文一一年(一六七一)の記載に「近江町火災」とみえる。また元禄三年(一六九〇)の金沢大火の記録では被災地として上近江町・下近江町が載る(「続漸得雑記」加賀藩史料)

近江町
おうみちよう

[現在地名]東区釣鐘つりがね町二丁目

内骨屋町うちほねやまち筋を境として釣鐘町の西に延びる両側町で、中央を南北松屋町まつやまち筋が通る。町名は明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図にみえる。町名の由来は不明であるが、「難波雀」ほかに近江屋・坂本屋・長浜屋など近江国に関係すると思われる屋号が載り、成立に近江商人との関係が考えられる。大坂三郷北組に属し、元禄六年(一六九三)水帳(大阪市立博物館蔵)では屋敷数二九、安政三年(一八五六)水帳(大阪市立中央図書館蔵)では二七、役数はいずれも四〇役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は菊屋庄左衛門。寛政一〇年(一七九八)水帳(同蔵)の貼紙によれば、文化三年(一八〇六)まで長浜屋喜右衛門が十人両替として一役免除されている。

近江町
おうみちよう

面積:一八・〇四平方キロ

坂田郡の北部に位置し、北は長浜市、東は山東さんとう町、西は琵琶湖、南は米原町。町の中央を天野あまの川が西流。古代には南北に北陸道が通っており、箕浦みのうらから朝妻あさづま(現米原町)にかけての辺りが東山道と北陸道の分岐点であった。今ではその付近を国道八号・JR北陸本線が走る。古代には坂田郡阿那あな郷・朝妻郷上丹かむつにゆう(和名抄)に属し、古代豪族息長氏の勢力が強く、山津照やまつてる神社や山津照神社古墳がある。

近江町
おうみまち

[現在地名]酒田市相生町あいおいちよう一丁目・浜田はまだ一丁目

荒瀬あらせ町の北に延びる両側町で、北は筑後ちくご町。米屋町組に属する。町名は最上氏時代に川北三奉行の一人寺内近江の屋敷があったことに由来するという。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)はま町横町とみえ、浜町分となっていた。町の長さ四六間、屋敷一八軒。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)では近江町として町域一町半、家数二五・人数一五四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android