笹原新田(読み)ささはらしんでん

日本歴史地名大系 「笹原新田」の解説

笹原新田
ささはらしんでん

[現在地名]国分寺町笹原

姿すがた川東岸台地上にあり、北側を旧河道が北から南に走る。東は河内かわち薬師寺やくしじ(現南河内町)、西から南にかけて小金井こがねい村、北は下石橋しもいしばし(現石橋町)。日光街道が南北に貫通し、小金井宿と北の石橋宿の中間に位置し、小金井宿の加宿を勤めていた(宿村大概帳)元禄郷帳には小金井村枝郷として笹原新田とある。幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となった。天明七年(一七八七)上知され、寛政一〇年(一七九八)佐倉藩領に復した(紀氏雑録続集)

笹原新田
ささはらしんでん

[現在地名]三島市笹原新田

箱根はこね山西麓に位置する坂五ヵ新田の一つ。東海道沿いに新田の東に続く。江戸から二七里目の一里塚があった。元禄郷帳によると高二石余。幕末まで幕府(韮山町史)。集落は「こわめし坂」(下長坂)とよばれる急坂両側に並ぶ。「こわめしを食べて力をつけなければ坂が登れなかった」とか、「背負っていた米が汗でこわめしになってしまった」などの伝承が残る。この坂で街道往来の稼業生業としていたのであろう。坂五ヵ新田は箱根竹の産地としても知られた。根元から先まで太さが一様なので煙管のラウなどに用いた。「諸国道中旅鏡」に「刈て京都へ登し、煙管の羅宇竹に用ゆ、箱根竹とて名物なり」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報