山神社(読み)さんじんじや

日本歴史地名大系 「山神社」の解説

山神社
さんじんじや

[現在地名]生野町口銀谷

いち川左岸に鎮座。旧村社。祭神は金山毘古命。かつて口山くちさん神社と奥山おくさん神社があり、由緒も社地も異なっていた。口山神社は大永元年(一五二一)に創建されたと伝える。奥山神社は天文二二年(一五五三)吉田よしだ(現京都市左京区)から分霊を勧請したとされる。天正四年(一五七六)実相坊により神宮寺が建てられ、銀山の守護神として毘沙門天を祀ったという(生野史)

山神社
さんじんじや

[現在地名]君津市笹 奥笹

小櫃おびつ川が東方を流れ、本殿・拝殿と奥殿との中間を支流のやつの沢が貫流する。奥殿は丘阜の上に建てられ、丘は怪岩奇石となってそびえ立つ。祭神は大山祇命・須佐之男命・高皇産霊命・蒼稲魂命。旧郷社。境内三四四坪。社伝によれば延徳二年(一四九〇)別当寺明覚みようかく院が火災により焼失、文書類などことごとく烏有に帰し、創建の年月などは不詳という。

山神社
さかきやまじんじや

[現在地名]熊野町 中溝

熊野盆地西北にそびえるじよう山とかね灯籠どうろう山の間にある谷の入口で、盆地の大半を眺望できる丘陵上に鎮座。もと本宮八幡ほんぐうはちまん宮と称し、神功皇后以下三神を祀る。旧村社。承平三年(九三三)宇佐うさ(現大分県宇佐市)より勧請したと伝えるが詳細は不明。

社蔵の享禄元年(一五二八)一二月二七日付越中守相真補任状は、大内氏家臣で菅田氏と思われる相真が、二郎左衛門尉実憲(梶山氏か)を「熊野惣庄祝言職」に補任するというもので、前年熊野要害(土岐城か)を攻略した大内氏が熊野庄を支配するようになったこと、当社が熊野庄内で卓越した地位にあったことなどがうかがえる。

山神社
やまのかみしや

[現在地名]小牛田町牛飼 斎の台

祭神は木花開耶姫命。祭日は旧暦三月一二日・一〇月一二日。牛飼うしかい東部水田中の微高地に鎮座。山の神様の通称で親しまれる。以前は江合えあい川南岸の石巻いしのまきと古川を結ぶ道(現国道一〇八号)に沿う南小牛田みなみこごた町屋敷まちやしきにあったが、明治四一年(一九〇八)火災に遭い、大正四年(一九一五)現在地に移転。「南小牛田村安永風土記」では村鎮守で、別当は牛飼村の羽黒派修験蓮妙れんみよう院とある。社家に伝わる由緒によれば永治元年(一一四一)小山田清寧が家神として奉祀、元亀二年(一五七一)その後裔浄円が南小牛田村町屋敷に居住、天正三年(一五七五)祠を建て奉鎮、元和元年(一六一五)別当自円が社殿を拡張改築したという(小山田則幸家文書)

山神社
やまじんじや

[現在地名]阿仁町水無 畑町

阿仁鉱山町の一部である畑町東裏はたまちひがしうらにあり、阿仁鉱山の鎮守社で、現祭神は金山毘古大神・天照大神・倉稲魂大神・武雷神・火産霊大神。「さんじんさま」ともよばれる。

秋田風土記」に、

<資料は省略されています>

とある。縁起によれば天正年間(一五七三―九二)むかい銀山の山師らが創建、大坂の陣にあたり山師山本喜平らが軍用金として藩主佐竹氏に吹目銀を献上、これを機に毎年祭祀料二〇石・文銀七〇〇匁を寄進されたという。

神社
さんぎじんじや

[現在地名]江釣子村鳩岡崎

堂前どうまえに鎮座。祭神大山津見命。ほかに太子立像を合祀する。明治初年までは太子堂と称されていた。社伝によれば、相野玄蕃(のちの鳩岡崎玄蕃)の祖父日野将監(のちの相野采女正寛常)は、天文(一五三二―五五)頃浪人となって奈良の地を去って奥州に下り、同一四年和賀郡二子ふたご城下(現北上市)に滞留し、剣術と書道を指南していたが、和賀薩摩守義治の家臣に見いだされ、和賀家に召抱えられた。

山神社
やまじんじや

[現在地名]二ッ井町小掛字払川

小掛こがけの西端の小高い地にある。祭神大山祇命、旧村社。

材木郷には山の鎮守、災厄防止のため山神や水神を祀るならわしがあるが、小掛村の山神社は、延宝元年(一六七三)の山火事に建立の淵源があった。小掛村刈又石沢かりまたいしざわに発した野火は、付近二〇ヵ村の消火活動にもかかわらず山を全焼させた。翌年に材木郷一六ヵ村の山子が動員されて焼木の整理にあたったが、その際に藩主の命で水神山神堂が建立された(「母体小掛両村山境論御検使見分之節尋答書」秋田杉の成立並に更新に関する研究)

山神社
さかきやまじんじや

[現在地名]福岡町福岡

福岡のほぼ中央、森に囲まれて鎮座する。祭神は天照大神・建速須佐之男命伊邪那美命。旧村社で、祭日は七月二〇日。植苗木うえなえぎ地区に苗木城(現中津川市)の前身広恵寺こうえんじ城があり、近くに榊山神社を建立し城の守神として崇拝していた。城が苗木に移されたのち、慶長一九年(一六一四)現在地に遷座された。同年九月吉日の棟札が残る。例祭はたたきまつりで知られる。広恵寺城を苗木へ移築する際、神社も一緒に移すことになり、神体を運ばせたが、当地まで来ると急に重くなって動かなくなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報