竹城保(読み)たかきほ

日本歴史地名大系 「竹城保」の解説

竹城保
たかきほ

高城高木とも記す。現松島町から利府りふ町にかけて所在した国衙領。のち千葉常胤の次男師常を祖とする奥州相馬氏の所領となり、一族に相伝された。文治二年(一一八六)四月二八日の陸奥国衙公文所下文(写、塩竈神社文書)に初見。竹城保司に対して、保内にある塩竈神社領の在家所役并万雑公事を免除して神社の禰宜に安堵させるべきことを命じている。建久元年(一一九〇)一〇月五日の「陸奥国諸郡郷新地頭等所」に宛てた源頼朝下文(「吾妻鏡」同日条所載)では、「国司御厩佃」として定め置かれた郡郷の一としてみえる。同四年三月七日頼朝は竹城保司に対し、「一宮塩竈社」の臨時祭料田二町五段の設定を命じた(「将軍家政所下文写」塩竈神社文書)。嘉禄三年(一二二七)三月二日の関東下知状案(同文書)にも保内塩竈神社神田のことがみえ、下って観応二年(一三五一)一二月二三日には、足利尊氏下文(同文書)により竹城保内同社祭料田二町五段・同在家が安堵されている(塩竈市の→塩竈神社。また奥州における吉良畠山・石塔・斯波四探題の権力争いが頂点に達していた延文五年(一三六〇)四月、吉良貞経は塩竈社に願文を奉納するとともに、「竹城保付除仏神領等」の寄進を申出ている(同月二八日「吉良貞経寄進状」同文書)

奥州相馬氏の所領となった時期は明確でないが、遅くとも師常から数えて四代目の胤村の代には地頭職を有していたようである。胤村のあと所領は惣領家(師胤―重胤―親胤―胤頼―憲胤―胤弘―重胤、以下略)のほか、胤村次男胤顕を祖とする相馬岡田氏(胤盛―胤康―胤家―胤重―胤繁―胤久―胤行、以下略)、八男通胤を祖とする相馬大悲山氏(行胤―朝胤)や同じく胤村の子の胤氏などに分割相続された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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