立野庄(読み)たつののしよう

日本歴史地名大系 「立野庄」の解説

立野庄
たつののしよう

興福寺灯油免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の平群へぐり郡に「立野庄田畠六町 灯油免田也」とある。その条里(括弧内は坪数)世野せや九条一四里(二)、立野郷一〇条一四里(五)・一五里(一)竜田東たつたひがし条一里(一)・二里(三)、竜田西条二里(三)で、現三郷町大字勢野せや西部から立野にかけての大和川北岸の地域となる。

永万二年(一一六六)の某寺所司等解(陽明文庫所蔵「兵範記」仁安二年秋巻裏文書)に「字立野下庄(中略)四至限東大河、限西大納言得業庄堺、限南大河并三辻、限北字尾埼峯」とあり、一二世紀には立野上庄・立野下庄があり、四至からみると下庄は大字立野の馬場ばば西浦にしうら集落辺りと考えられ、したがって上庄は前記の立野庄であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報