仁和寺
にんなじ
京都市右京区御室(おむろ)大内町にある真言(しんごん)宗御室派の総本山。大内山と号する。古くは「にわじ」とよび、御室御所(ごしょ)、また仁和寺門跡(もんぜき)と称した。本尊は阿弥陀(あみだ)三尊。光孝(こうこう)天皇の勅願により、886年(仁和2)起工されたが、完成をみず天皇は翌年死去。宇多(うだ)天皇が遺志を継いで888年に完成、真然(しんぜん)を導師として供養を営み、年号をとって仁和寺と号し、観賢が別当職についた。宇多天皇はのち東寺の益信(やくしん)について出家して法皇となり、当寺の南に一宇を創建して住したので、以来、御室御所といわれた。そののち代々皇族の法親王が住職となり、また寛朝、寛空、済信(さいしん)、寛助らの高僧も住して、真言宗の学問と修法の両面の発展に努めたが、1119年(元永2)諸堂焼失した。しかしその後も朝廷、貴族の信仰はいよいよ厚く、諸堂伽藍(がらん)の創建も相次ぎ、平安末期に覚性法親王が初めて総法務職に任ぜられ、このとき寺門大いに繁栄し、門跡寺院として諸宗各本山の最上位を占めた。鎌倉時代にもなおこの繁栄は続いたが、室町時代にはやや衰微した。ついで応仁(おうにん)の乱(1467~77)で堂宇が全焼し、久しく荒廃したが、江戸時代の初めに徳川家光(いえみつ)が20万両を下付し、また1637年(寛永14)皇居改造に際し、紫宸(ししん)殿、清涼殿、常御殿、唐門(からもん)、四脚門などが下賜され、堂塔30余、真光院など10余院が重建された。明治維新に至って皇統門跡が断絶し、1887年(明治20)諸堂が焼失したが、数年後には諸堂の一部を修営し、ついで1909年(明治42)再建の工を起こし、14年(大正3)重興された。
現在、金堂(国宝)、御影(みえい)堂、仁王(におう)門、五重塔、観音(かんのん)堂、中門、鐘楼、茶室の飛濤(ひとう)亭、遼廓(りょうかく)亭(以上、国重要文化財)などがある。金堂は1642年移築の紫宸殿(江戸時代)で、阿弥陀・観音・勢至(せいし)の三尊像(平安前期、国宝)を安置し、御影堂は同年移築された清涼殿(江戸時代)を宝形(ほうぎょう)造にしたもので、弘法大師(こうぼうだいし)空海の坐像(ざぞう)を安置している。五重塔と仁王門は同年の建立。彫刻に阿弥陀三尊像(国宝)ほか、増長(ぞうちょう)天・多聞(たもん)天立像、吉祥天立像、愛染(あいぜん)明王坐像(以上平安後期、重文)などがあり、絵画に絹本着色孔雀明王(くじゃくみょうおう)像(南宋(なんそう)代、国宝)、同聖徳太子像(鎌倉時代、重文)など、また文書典籍に『三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)』(空海筆ほか数筆、平安初期)、『医心方』(平安後期)、『御室相承記』(鎌倉時代、いずれも国宝)など、多くの文化財を蔵している。寺域は広大で、山内に宇多天皇の御陵がある。またサクラの名所で、俗に御室の桜といわれる。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[勝又俊教]
『清水善三著『仁和寺』(1967・中央公論美術出版)』▽『『古寺巡礼 京都11 仁和寺』(1977・淡交社)』
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にんな‐じ ニンワ‥【仁和寺】
京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の総本山。山号は大内山。仁和二年(
八八六)光孝天皇の勅願により着工、同四年完成。延喜四年(
九〇四)宇多天皇が出家後入寺。以後御室御所と称し門跡寺となって明治維新まで歴代法親王が住持となる。度々の火災で焼失。現在の金堂(国宝)、御影堂は慶長年間(
一五九六‐一六一五)に建てられた紫宸殿、清涼殿を内裏から移築したもの。本尊の木造阿彌陀如来三尊、絹本着色孔雀明王像、空海筆の三十帖冊子、医心方などの国宝を
所蔵。
境内は桜の名所として知られ、
御室桜の名がある。にわじ。御室。仁和寺門跡。
※古今(905‐914)秋下・二七九・詞書「仁和寺にきくの花めしける時に」
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仁和寺
にんなじ
京都市右京区御室にある真言宗御室派の大本山。大内山と号する。光孝天皇の勅願を継いで仁和4 (888) 年に宇多天皇が建立,延喜4 (904) 年に移ったことから御室御所とも称する。門跡の制はこれから始り,代々法親王が入住した。応仁の乱で全焼したが,寛永 11 (1634) 年に徳川家光が皇居から殿舎を移して再興した。現在の本堂,御影堂は紫宸殿,清涼殿で室町時代末期,仁王門と五重塔は江戸時代初期の建築。金堂は桃山時代の建築で国宝に指定されている。密教の寺宝が多く,空海の『三十帖冊子』 (国宝) は入唐中に経文を書写したもの。
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デジタル大辞泉
「仁和寺」の意味・読み・例文・類語
にんな‐じ〔ニンワ‐〕【仁和寺】
京都市右京区にある真言宗御室派の総本山。山号は大内山。宇多天皇が光孝天皇の志を継いで仁和4年(888)完成。譲位後、益信を戒師として出家、一宇を設け御座所として住んだので、御室御所と称した。のち、門跡寺院として代々法親王が入寺。金堂は寛永年間(1624~1644)に紫宸殿を移築したもので国宝。平安時代作の本尊阿弥陀三尊像や「三十帖冊子」「医心方」をはじめ、多数の文化財を所蔵。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。御室仁和寺門跡。
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仁和(にんな)寺
京都府京都市右京区にある寺院。真言宗御室派総本山。山号は大内山。本尊は阿弥陀三尊。金堂、木造薬師如来坐像(いずれも国宝)など、数多くの文化財を保有。境内にある遅咲きの桜の林は御室桜(おむろざくら)と呼ばれ、国の名勝に指定。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。
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仁和寺
にんなじ
京都市右京区にある真言宗御室 (おむろ) 派の総本山
光孝天皇の勅願をついで,子の宇多天皇が888年に建立。のち宇多天皇は出家後同寺に入り「御室御所」と称し,以後代々法親王が入住した。堂塔のうち本堂・御影堂は紫宸殿・清涼殿の移築で,寛永年間(1624〜44)の建築である。
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にんなじ【仁和寺】
京都市右京区の双ヶ丘(ならびがおか)の北にある真言宗御室(おむろ)派の総本山。大内山と号し,仁和寺門跡,御室御所ともいう。886年(仁和2)光孝天皇が鎮護国家の道場として造営を発願,その志を宇多天皇が継いで888年に金堂落成,元号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は譲位後の899年(昌泰2)出家して仁和寺第1世となり,904年(延喜4)寺内に室を設けて法務の在所としたことから御室の呼称がおこった。そののち当寺は代々法親王が法灯を継いで格式高い宮門跡寺院(門跡)として明治維新に至った。
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仁和寺
にんなじ
[現在地名]右京区御室大内
双ヶ丘の北方、大内山南麓に位置し、宇多野・双ヶ丘・花園の丘陵地帯に囲まれる。大内山と号し、真言宗御室派の総本山。仁和寺門跡・御室御所ともいう。本尊は阿弥陀三尊。光孝天皇等身の如来と伝える。平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
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世界大百科事典内の仁和寺の言及
【四円寺】より
…平安時代に,現在の京都市右京区竜安寺の付近にあった四つの御願寺(ごがんじ)の総称。いずれも仁和寺(にんなじ)の子院で,天皇の後院(ごいん)として営まれた。仁和寺に深く帰依した円融天皇が983年(永観1)に御願寺とした円融寺をはじめとして,998年(長徳4)一条天皇御願の円教寺,後朱雀天皇の御願で,後冷泉天皇により1055年(天喜3)に完成した円乗寺,70年(延久2)後三条天皇御願の円宗寺(初め円明寺と称す)である。…
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