福良浦(読み)ふくらうら

日本歴史地名大系 「福良浦」の解説

福良浦
ふくらうら

[現在地名]南淡町福良潮美台しおみだい一―三丁目

賀集中かしゆうなか村の西にある。北東に入り込む福良湾沿いにあり、南は塩屋しおや村西部と接する。西端の門崎とさき岬からは阿波鳴門を望む。北西は南辺寺なんぺんじ山系の稜線が延び、南は紀伊水道に面する。当村は福良湾に注ぐ長見ながみ川・原田はらだ川・向谷むかいだに川などの小河川しかなく、周りは山が迫るため平野部は狭小である。

貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に福良庄のうちとしてみえる浦一ヵ所にあたる。中世には阿波国へ渡る際の中継湊として利用された。「平家物語」巻九(六ヶ度軍)によれば、寿永三年(一一八四)平家に背いて源氏方についた阿波・讃岐の国衙在庁の武士らが平教経に攻められ福良の泊に逃げ城を構え戦ったが敗れたという。仁治四年(一二四三)二月讃岐に配流になった紀州高野山の僧道範は、六日淡路国府(現三原町)から三里の行程にある「フクラノトマリ」に着いた。しかし西風が激しく時々すさまじい吹雪となって三日間足止めをくい、「興津風ふくらかいそにひかすへてならはぬ浪にぬるゝ袖哉」などと詠っている。一〇日になりようやく阿波国に向かって出港した(南海流浪記)。正応二年(一二八九)七月病の一遍が阿波国から福良浦に移る際、「きえやすきいのちはみつのあはちしま山のはなから月そさひしき」と詠じている(一遍上人絵伝)。天正一三年(一五八五)三月羽柴秀吉から四国攻めの大将として派遣された羽柴長秀(秀長)は、福良に人数を揃え鳴門を渡り阿波土佐泊とさどまり(現徳島県鳴門市)に向かった(「四国御発向並北国御動座事」など)

正保国絵図に福良浦とみえ、高四〇〇石余。天保郷帳では高九〇三石余。市組に属した。反別戸数取調書によると反別八三町九反余、高九〇三石余。蔵入高は九〇五石余。福良浦庄屋は二人あり、天保期(一八三〇―四四)に小高取に任じられる岡田仁左衛門は村庄屋として全域を統轄し、加子である山口吉十郎は浦に関する支配を行った。岡田氏は三石を与えられていた。ほかに五畝余(一石余)が八幡社領であった。慶安二年(一六四九)の棟附帳(渡辺家文書)によると棟数三一〇・男六三三、船数六六。

福良浦
ふくらうら

[現在地名]津久見網代あじろ

日見ひみ浦の東、津久見湾に面する四浦ようら半島の北岸基部付近に位置する。江戸時代は佐伯藩領津久見浦組を構成する一村であった。郷帳類に村名はみえない。「豊後国志」によると津久見に属し、享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では津久見村枝郷とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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