福田原村(読み)ふくだはらむら

日本歴史地名大系 「福田原村」の解説

福田原村
ふくだはらむら

[現在地名]大野原町福田原

丸井まるい村の飛地西丸井を隔てて萩原はぎはら大谷おおたに池の北側に位置し、東部は傾斜地をなす。正保二年(一六四五)松屋半兵衛の子九郎兵衛の開墾に始まるという。寛文三年(一六六三)検地では一一町八反余・高六六石余、元禄一〇年(一六九七)には一四町五反・高九九石余に増加したと伝える。正徳四年(一七一四)九郎兵衛は当地を平田源治に譲渡し、安永八年(一七七九)には平田藤右衛門が藤村喜八郎に再譲渡したといわれる(三豊郡史)。その他福田原の淵源については「西讃府志」の所説など数説がある。

福田原村
ふくたわらむら

[現在地名]三好町福田ふくた

現町域の西南端にあり、集落の西をさかい川が南流する。知立ちりゆう(現知立市)方面に抜ける鎌倉街道が通る。福田原新田ともよばれた。明治一八年(一八八五)までは当地域には珍しく溜池がなく、「少シク旱セハ旱損アリ亦境川溢レテ水害ニ罹ル地所アリ」(愛知県西加茂郡各村沿革調)という状態であったが、現在はしん池が一つできている。

近世では、寛永郷帳以後に三好村から分村し、西尾藩領で、万治二年(一六五九)幕府領、天和元年(一六八一)伊保藩領、宝永七年(一七一〇)刈谷藩領、正徳二年(一七一二)幕府領、享保元年(一七一六)岡崎藩領・旗本水野和泉守領、同二年岡崎藩領・水野和泉守領・旗本加藤駿河守明教領、寛保元年(一七四一)幕府領・加藤駿河守領、文政六年(一八二三)幕府領・加藤駿河守領・沼津藩領、天保二年(一八三一)西尾藩領・加藤駿河守領となり、明治維新に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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