十輪寺(読み)じゆうりんじ

日本歴史地名大系 「十輪寺」の解説

十輪寺
じゆうりんじ

[現在地名]高砂市高砂町横町

宝瓶山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、弘仁六年(八一五)空海の開創で、初めは地蔵十輪寺経にちなみ地蔵山十輪寺と号し真言宗寺院であった。その後寺運が衰えたが、建永二年(一二〇七)法然が四国配流の途次、当地を訪れ漁夫次郎大夫を教化し、村民らは法然を当寺に迎えて中興開山とし、浄土宗に改宗したという。建長七年(一二五五)後深草天皇教信きようしん(現加古川市)を建立した際、浄土諸寺に対し毎年八月に七日間の法会を命じたが、当寺は荒井あらい観音寺などとともに九日に勤修することとされた(「播州念仏山教信寺縁起」智恵袋)

十輪寺
じゆうりんじ

[現在地名]岸和田市野田町二丁目

臨済宗妙心寺派、山号仏頂山、本尊釈迦如来。元文三年(一七三八)岸和田藩主岡部長著が盧山を開山として創建した。天保一四年(一八四三)の南郡寺社覚(鬼洞文庫蔵)の十輪寺の項に「旧東光寺薬師の旧跡なり」とある。東光とうこう寺は紀州根来ねごろ寺の支配下にあり、中世当地の領主和田氏の菩提寺であったと伝えられるが、戦国期に廃寺となった。この跡地に当寺が建立されたが、それについて寺社帳写(「岸和田藩志」所収)は「此十輪寺、地蔵堂にて御座候、泉州日根郡浦田村に有之候処、同州南郡岸和田村引直申度旨、元文三午年十二月二十六日、堺御奉行所にて願通被仰付」と記す。

十輪寺
じゆうりんじ

[現在地名]奈良市大野町

大野おおの町の西部に位置。離苦山と号し、東寺真言宗、本尊は地蔵菩薩。古くは現奈良市田原たわら地区の中心的大寺であったが、草創は不詳。元文四年(一七三九)と文政二年(一八一九)に火災に遭い、多くの什宝を失った。元禄(一六八八―一七〇四)以前は真言宗新義派で長谷はせ(現桜井市)末、それ以後は法隆寺北室きたむろ院の末寺であった。江戸末期当寺の末寺は二六ヵ寺あった。本尊の地蔵菩薩立像の周囲には四天王が配され、脇壇に不動明王二躯、県指定文化財で頭部内に永禄六年(一五六三)の墨書のある木造阿弥陀如来坐像、中興開山秀清坐像、弘法大師像などを安置する。

十輪寺
じゆうりんじ

[現在地名]村上市大町

おお町の西側の家並ほぼ中央にある。如意山と号し、高野山真言宗。本尊は地蔵菩薩。本尊は天文年間(一五三二―五五)本庄繁長により祀られたといわれ、代々の藩主が供養米三石を寄進したという。現在は町内の火災鎮めとして祀られる。寺伝では万治三年(一六六〇)三月九日てら町より出火し、十輪寺にも火の粉が雨のように降ってきた。その時住持は本尊に向かって、菩薩の方便で火災から救護されるよう願った。

十輪寺
じゆうりんじ

[現在地名]西京区大原野小塩町

善峰よしみね寺東方にある。小塩山と号し、天台宗。寺伝は、嘉祥三年(八五〇)染殿皇后藤原明子安産祈願のため円仁の弟子恵亮が開創、勅願所に定められたとする。応仁(一四六七―六九)以来衰微していたが、寛文年間(一六六一―七三)花山院定好が再興、花山院家菩提寺となった。のち花山院常雅も殿舎を改築している。本堂・鐘楼は府指定文化財。観音堂は外形が鳳輦の形をしており、堂西方の宝篋印石塔は在原業平の墓と伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android