石倉村(読み)いしくらむら

日本歴史地名大系 「石倉村」の解説

石倉村
いしくらむら

[現在地名]月夜野町石倉

奈女沢なめざわ村・上牧かみもく村の西、利根川右岸に位置し、西方大峰おおみね山がそびえる。中世、南の小川おがわ村・月夜野町とともに小川郷といい、上下に分れた同郷のうち上郷に属したという(桃野村誌)。当地に小字今泉いまいずみがあり、天正七年(一五七九)一二月二六日の武田家朱印状(北条文書)で今泉村が小中彦兵衛尉に宛行われている。なお元亀三年(一五七二)閏正月四日の上杉謙信書状(山川文書)などにみえる石倉を当地とする説があるが、これは現前橋市石倉町であろう。寛文郷帳によると田方六七石余・畑方一〇一石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高七五六石余。

石倉村
いしくらむら

[現在地名]伏見区久我石原こがいしはら

かつら川西岸に位置する。桂川に接する個所にいわゆる桂川堤があり、また大井手溝が当村を南北に貫流する。北は築山つきやま(現南区)、南は久我こが村と境し、東は桂川を隔てて塔森とうのもり(現南区)、西は大藪おおやぶ(現南区)と接する。中世は久我(上)庄の地。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば、石高二〇〇石五斗、その内訳は庭田家領一〇四石一升、堀河家領五九石、中山家領一八石九斗九升、土山駿河守知行分一八石五斗であった。

石倉村
いしくらむら

[現在地名]姫路市石倉

下伊勢しもいせ村の南、大津茂おおつも川中流域に位置する。美作道通り揖東いつとう郡に属した。慶長国絵図に石蔵村とみえる。領主変遷口佐見くちさみ村と同じ。正保郷帳では田方三三三石余・畑方四二石余。天保郷帳では高三八八石余。当村は美作道飾西しきさい宿の助人馬役を勤めた(寛文一一年「飾西宿助人馬役存続願書」飾西自治会蔵)

石倉村
いしくらむら

明治八年(一八七五)から同三五年までの村。明治八年一一月本茅部ほんかやべと石倉が合併鷲ノ木わしのき村から独立して成立した(「開拓使日誌」同月一三日条)。「共武政表」によると戸数五三・人口三五八、駄馬五五・産馬一、日本形船九七。物産木材・薪・炭・鮭・鱒・煎海鼠・鯡。同一三年鷲ノ木外二ヶ村戸長役場の管轄下に入る(森町史)。同一六年の漁業戸数五六戸、持府舟四七・磯舟六、刺網八一一・建網一九・引網七・雑網四(明治十六年函館県統計書)

石倉村
いしくらむら

[現在地名]五泉市石倉

能代のうだい川左岸の低湿地にあり、東は川を挟んで土深どぶけ村、西は丸田まるた村に接する。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳に高二七石二斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)には高六六石四斗余とあり、五泉組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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