真衣野牧(読み)まきののまき

日本歴史地名大系 「真衣野牧」の解説

真衣野牧
まきののまき

現在の武川村一帯にあった御牧。駒ヶ岳山麓、釜無川右岸の台地上に位置し、牧原まきのはらはその遺名という。「延喜式」左右馬寮に載る甲斐国の三御牧の一つで、柏前かしわざき(現高根町)とともに毎年三〇疋を貢馬し、八月七日が駒牽日と定められていた。律令制下の巨麻こま真衣まきの(和名抄)の地に成立したとみられる。真木野・真衣とも書く。「小右記」には真野御馬・真木牧とも記されているが、あるいは脱字なのかも知れない。

真衣野・柏前両牧による駒牽は、「本朝世紀」天慶元年(九三八)八月七日条が初見だが、同条には前々年にも貢馬したことが記されており、「樗嚢抄」に載る承平元年(九三一)八月七日の駒牽も、日付から両牧によるものと推定されるなど、それ以前から駒牽は行われていたことは確かで、さらに「日本紀略」天長六年(八二九)一〇月一日条には甲斐国御馬の駒牽記事があるから、その成立は九世紀初頭までさかのぼる可能性がある。天慶四年には八月七日に貢進されず、実際の駒牽が一一月二日となったのは平将門の乱の影響といわれ、この年は他の御牧もすべて遅れている(本朝世紀・政事要略)。その後の貢馬は遅延が例となったため、天暦六年(九五二)九月二三日の太政官符(政事要略)では甲斐・信濃武蔵上野国司に対し、違期減数を厳しくとがめ遵守を強く求めている。当牧の事例でも、天慶八年九月二一日(本朝世紀)をはじめとして、天暦三年八月二七日(日本紀略)・天徳四年(九六〇)八月七日(西宮記)・応和二年(九六二)九月三日(同書)・同三年九月(同書)・康保二年(九六五)八月七日(北山抄)・同三年八月二六日(西宮記)・安和三年(九七〇)八月一四日(同書)と、期限過ぎの駒牽が目立つなかで、前記官符発布後に定例日の貢進が二例あるのは、同官符の牧監解任・国司減給という措置が一定の効果をもたらしたことを示すものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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