穂坂牧(読み)ほさかのまき

日本歴史地名大系 「穂坂牧」の解説

穂坂牧
ほさかのまき

かやヶ岳山麓、現韮崎市穂坂町地区付近にあった御牧(勅旨牧)。「延喜式」左右馬寮に載る甲斐国の三御牧の一つで、毎年の貢馬数三〇疋は同書所載牧中で最大である(ただし承平元年に四〇疋貢進の武蔵国小野牧が成立する)。「日本紀略」延喜四年(九〇四)八月一七日条の「御南殿、覧穂坂牧馬」という駒牽記事が当牧のみえる早い史料であるが、天長六年(八二九)には甲斐国御馬の貢馬が行われ(同書同年一〇月一日条)、また同四年には甲斐国の牧主当を改めて牧監を置いているから(同年一〇月一五日「太政官符」類聚三代格)、甲斐の御牧の成立は少なくとも九世紀初頭までさかのぼるのは確実である。ただ八世紀後半に令制下の牧を転入して設置されたとみられる御牧の多くが、牧馬の押印に「官」字を用いているのに、穂坂牧が「栗」字であるのは(延喜式)、他の御牧と当牧との成立事情の相違を反映したものといわれる。牧域を具体的に示す史料はないが、当牧での生育頭数八五三疋との一志茂樹氏による計算数字があるように(官牧考)、毎年三〇疋の貢馬を維持するためには広大な面積を要したと思われ、現北巨摩郡双葉ふたば町の赤坂あかさか台地から同郡明野あけの小笠原おがさわら方面にまで広がっていたとの推定がある(韮崎市誌)

御牧から貢進される馬は前年に検印され、翌年八月までに中央に送られて駒牽行事が行われた。甲斐国貢上の馬は左馬寮の所管とされたが、駒牽日は牧ごとに定められていて、当牧は八月一七日であった。前掲の延喜四年をはじめ、同七年(日本紀略)・同一〇年(政事要略)は規定の一七日に駒牽が行われており、延喜五年(政事要略)・延長五年(九二七、「西宮記」)には八月二〇日と若干遅れるが、一〇世紀前半にはほぼ期日が守られ、貢馬数も延喜五年・同一〇年の例のように定数三〇疋が厳守されていたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の穂坂牧の言及

【茅ヶ岳】より

…この緩斜面上には,釜無川や御勅使(みだい)川のはんらんを避けるため,古来,主要な交通路がおかれた。また平安中期以来,官営の馬牧穂坂牧が設けられ,甲斐の代表的な馬の産地となり,中央に献じられた。現在はダイコン,桑,ブドウの栽培が主である。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」