皆瀬川村(読み)みなせがわむら

日本歴史地名大系 「皆瀬川村」の解説

皆瀬川村
みなせがわむら

[現在地名]山北町皆瀬川

東に皆瀬川が流れ、西は川西かわにし村・山市場やまいちば村、南は川村山北かわむらやまきた都夫良野つぶらの村、北は玄倉くろくら村・神縄かみなわ村と接し、南に河村関所道がかかる。正保国絵図に「川村ノ内皆瀬川」とあり、古くは川村郷に属した。

近世は小田原藩領。寛永一七年(一六四〇)の年貢割付状(県史四)には「皆瀬川之内」として、かち屋敷やしき分・深沢ふかさわ分・中尾なかお分・市間いちま分・高杉たかすぎ分・さわ分・人遠ひととお分・八町はつちよう分と地域ごとに割付され、明暦二年(一六五六)の年貢割付状(同書)では右の各地域に村が付けられ、この八集落により村が形成されていた。

皆瀬川村
みなせがわむら

[現在地名]本宮町皆瀬川

田代たしろ村の東にある。熊野川の支流うけ(現大塔川)が北部を東流し、村内を妙法森みようほうのもり水源とする水無瀬みなせ川が北流して請川うけがわ村で筌川に注ぐ。康正二年(一四五六)三月二九日付の田地売渡状(中原家文書)に「ミなセ川柳か平」とみえ、永禄五年(一五六二)より天保一一年(一八四〇)まで書継がれた某寺算用状(湯川家文書)には「皆潮河」「皆淵河」とも記す。

慶長検地高目録に「水無瀬村」とあり、村高九五石余、小物成九・二三六石。和歌山藩新宮領で受川組に属し、明和寛政(一七六四―一八〇一)頃の家数三六(新宮領分見聞記)

皆瀬川村
かいぜがわむら

[現在地名]印南町皆瀬川

行者ぎようじや(四二二・四メートル)の北西麓、切目きりめ川沿いにある。西はさきはら村。「続風土記」は「峡間かひの義なるへし」と記す。近世初頭は松原まつばら村に含まれていたが、慶安(一六四八―五二)頃分村したという(同書)。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」に「皆瀬村」とみえ、田畑四町九反余で高五五石余、家数一七で内訳は本役四・半役五・無役八、人数五九、牛三、馬二、鉄砲一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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