百間石垣(読み)ひやつけんいしがき

日本歴史地名大系 「百間石垣」の解説

百間石垣
ひやつけんいしがき

[現在地名]熊本市二の丸

二ノ丸北部の関門であった、東西に築かれた堅固な枡形石垣。長さは東部八四間・高さ四間、中央三三間・高さ五―六間、枡形より西は五〇間・高さ三間という(熊本市史)新堀しんぼり御門からきよう町へ出る豊前豊後街道への城内からの通過路にあたる。百間石垣の東端の門をうずめ門、西端を二ノ丸北御門と称した。「加藤家伝」によれば、飯田いいだ丸を造った加藤家重臣飯田覚兵衛天守棟上げと同日に完成したといわれる。覚兵衛の屋敷は百間石垣の道路を隔てた北方にあった(加藤氏代熊本城之図「加藤清正伝」所収)。しかし「国誌」によれば、百間石垣の縄張りは穴生原庄右衛門が行い、その子孫は有吉氏に仕えたとある。国指定重要文化財。

百間石垣東端は本丸から北大手門を通り城外に出る北口で、百間石垣の下を豊前・豊後街道が通り、二ノ丸屋敷から北に出る二ノ丸北御門があったため、百間石垣に向き合う北側には上級家臣が配置された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報