二ノ丸(読み)にのまる

日本歴史地名大系 「二ノ丸」の解説

二ノ丸
にのまる

[現在地名]熊本市二の丸

熊本城の本丸・西ノ出丸の西側にあり、堀によって隔てられる。明治年間(一八六八―一九一二)には東西四〇〇間、南北四九二間と記される(熊本区誌)。二ノ丸の西側には三ノ丸があるが、両者区別はしにくく、細川氏時代の各絵図をみても、呼称は時代により異なるようである。一般には現在の監物台けんもつだい樹木園・二の丸公園・県立美術館・城内駐車場辺りをさす。加藤氏代熊本城之図(「加藤清正伝」所収)は、加藤忠広時代の元和(一六一五―二四)初年頃のものと推定され、この時期には、ほぼ武家屋敷原型が出来あがっているようである。加藤氏代熊本城之図と細川氏時代の各種の熊本城内絵図によりながら、その様子を現地名ごとに説明する。

〔二の丸公園・二の丸広場一帯〕

東は西大手門と西ノ出丸の空堀、西は土居と空堀、南は崖と土居、北は百間石垣に囲まれ、西ノ出丸外側の空堀を鉤形に囲む。この地域への出入口は、東は本丸から西大手門を経て西ノ出丸空堀を抜けて通る道(現城内駐車場から熊本城に通ずる道路)、西は法華ほつけ坂の途中から空堀沿いに北へやや上った道と宮内みやうち方面から本丸に向かう道とが交差する所に設けられた枡形門(現県立美術館入口)、北は百間石垣の西端にある枡形門、南は細川氏時代は有吉邸(現国立熊本病院敷地)前の坂道を登る口である。四つの出入口に結びついて通路が作られ、南北の出入口を結ぶ通路は武家屋敷群を二分する。加藤氏時代には本丸から西ノ出丸を経て二ノ丸武家屋敷に至る入口南側に新美氏(二千七三六石)屋敷があり、その西側、南北の通路に沿って、筆頭家老加藤右馬允の大屋敷が配置された。加藤右馬允屋敷は南は土居・崖まで、北は宮内からの枡形門に及び、間口八五間・奥入四〇間であった(現城内駐車場と二の丸広場の南地域)。右馬允は、清正死亡後に起こった牛方・馬方騒動の一方の頭で、牛方派の加藤美作を追放して忠広政権の継続を可能にし、その功績で二万一六石余という最高の知行高を得た。加藤右馬允屋敷の東側、すなわち西ノ出丸の空堀に沿って七屋敷があり、南端は蟹江主膳(一千一一二石余)屋敷、北端は清正の筆頭家老下川又左衛門(一万一一石余)屋敷である。西の枡形門の地域には、枡形門から北に走る通路の西側に三屋敷、加藤右馬允屋敷から北への並びに五屋敷がみられ、大体五〇〇石前後の知行取である。この屋敷群を北へ抜けて東折した百間石垣の上の広場に三屋敷があり、忠広時代に筆頭奉行職にあった相田内匠屋敷がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報