白河城下(読み)しらかわじようか

日本歴史地名大系 「白河城下」の解説

白河城下
しらかわじようか

東は阿武隈高地、西に那須山系、南は八溝やみぞ山系に挟まれた標高三七〇メートルほどの低平な台地上に位置。東流する阿武隈川とその支流谷津田やんた川の合流直前の地帯を中心とする。白川とも記された。南北朝初期に結城宗広の長子親朝が小峰こみね城を築き、小峰氏を名乗ったことにより城下の歴史が始まる。永正年間(一五〇四―二一)同城は搦目からめ(白川城)に代わって結城白川氏の本城となったと推定される。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉奥羽仕置により白川氏が改易となって以後、寛永四年(一六二七)まで蒲生氏・上杉氏、再び蒲生氏の支配を受けた。再蒲生氏時代の白河城代町野吉氏が若干の城下町の整備を行ったというが、城下町の整備が本格的に行われたのは寛永四年に白河藩が立藩してから以降である。奥州道中の宿駅でもあった。

丹羽長重は寛永五年に幕府より白河城(小峰城)の築城許可が出ると、その築城・改修とともに城下の町割を行った。従来南東から城下に入っていた奥州道中を、南西から鉤の手状に引入れた。阿武隈川の旧河道を利用した外堀の北側には会津あいづ町が成立した。武家地は三の丸のほか、会津町を中心とし、文化五年(一八〇八)の白河城下絵図(白河市歴史民俗資料館蔵)によれば、三の丸には重臣が配置され、中級武士の屋敷は会津町に置かれた。足軽屋敷は町屋を挟んでしん町・番士ばんし小路・てら小路・八幡はちまん小路・向寺むかいでら町・手代てだい町・勘定かんじよう町・鷹匠たかじよう町などにあった。現在の字で示すと、道場小路どうじようこうじ追廻おいまわし・勘定町・郭内かくない米村道北よねむらみちきた立石たていし・鷹匠町・立石山たていしやま束前町そくぜんまち向新蔵むかいしんくら登町のぼりまち袋町ふくろまち五番丁川原ごばんちようがわら寺小路てらこうじ手代町てだいまち・会津町・細工町さいくまち宰領町さいりようまち北登町きたのぼりまち友月山ゆうげつざん士多町したまち士多町東したまちひがし昭和町しようわまち日影ひかげ日向ひなた仁井町にいまちにあたる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の白河城下の言及

【白河[市]】より

…また西方の甲子(かつし)高原や甲子温泉にバスが通じている。【大澤 貞一郎】
[白河城下]
 陸奥国白河郡の城下町,奥州道中の宿駅。白河関で知られるように,往古から陸奥の表玄関にあたる。…

※「白河城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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