狩野光信(読み)カノウミツノブ

デジタル大辞泉 「狩野光信」の意味・読み・例文・類語

かのう‐みつのぶ【狩野光信】

[1561または1565~1608]安土桃山時代の画家。永徳の子。父の豪壮な画風に対して、大和絵風の優美で叙情的な画風をもって慶長年間に活躍。作品に勧学院の「花鳥図襖」など。

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精選版 日本国語大辞典 「狩野光信」の意味・読み・例文・類語

かのう‐みつのぶ【狩野光信】

安土桃山時代の画家。京都の人。永徳の長男。父の死後、狩野家の中心として、肥前名護屋城の襖絵、徳川秀忠御殿の「洛中洛外図」を描く。大和絵の風を取り入れた優雅な画風で、作品は他に園城寺法然院の襖絵など。永祿四~慶長一三年(一五六一‐一六〇八)。生年は永祿八年(一五六五)とも。

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朝日日本歴史人物事典 「狩野光信」の解説

狩野光信

没年:慶長13.6.4(1608.7.15)
生年:生年不詳
桃山時代の画家。狩野永徳嫡男として京都に生まれた。幼名は四郎次郎,のち右京進と称した。子の貞信も右京進と称され,それと区別して古右京とも呼ばれている。永徳が織田信長に仕えたところから,光信も年少のうちに安土城障壁画の制作に従事したと推定される。また豊臣秀吉にも仕え,父と共に大坂城や聚楽第にも障壁画を描いたと思われる。永徳の没後は狩野派一門の中心となり,肥前(佐賀県)名護屋城の障壁画を制作した(1592)。その他,宮中で屏風(1598)を,滋賀園城寺勧学院客殿に障壁画(1600)を,京都の徳川秀忠邸(二条城)に大内裏図(1603)などを描いたが,現存作は少ない。江戸幕府の命で江戸へ下向したが(1606),帰洛の途次,桑名(三重県)で客死した。享年44歳,また48歳ともいう。光信の作風は,父永徳の豪壮華麗な様式とは異なり,より装飾化された繊細優美な表現を特色とする。光信あるいはその周辺作家の作とされる園城寺勧学院,京都高台寺霊屋,京都法然院,滋賀都久夫須麻神社などの障壁画には,永徳の雄大さと厳しさはないが,慎ましやかながら奥行きのある構図法に,やまと絵的な優美な抒情性がある。江戸時代以来,光信の評価は永徳と比べ必ずしも高くないが,近年,永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しをした作家として注目されつつある。<参考文献>土居次義「狩野永徳/光信」(『日本美術絵画全集』9巻)

(小川知二)

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改訂新版 世界大百科事典 「狩野光信」の意味・わかりやすい解説

狩野光信 (かのうみつのぶ)
生没年:?-1608(慶長13)

桃山時代の狩野派の画家。狩野永徳の嫡男。右京と称したが,のちに同名の狩野派画家と区別するため古右京と呼びならわされる。安土城(1576),肥前名護屋城(1592),徳川秀忠邸(1603)などの障壁画制作に従事した。桃山時代には巨樹を中心としたダイナミックな構成,筆力の強い豪快な作風が盛行するが,光信の画風はそれらと相違して繊細で優美な特色を示している。たとえば園城寺勧学院客殿障壁画《花木図》(1600)では自然な奥行きをもった空間につつましやかにモティーフを配しており,また光信とその周辺の作例と考えられる法然院方丈,都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿,高台寺霊屋などの障壁画もすべて同様の傾向をみせている。近世の画史画伝類では概して,父永徳に比して著しく低い評価を受けているが,近年あらためてその中世やまと絵を継承した温雅な画風が見直されている。
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百科事典マイペディア 「狩野光信」の意味・わかりやすい解説

狩野光信【かのうみつのぶ】

桃山時代の狩野派の画家。狩野永徳の長男。父を助けて安土城などの障壁画制作に従事,父の没後狩野宗家を継いだ。1606年江戸に下り,1608年帰京の途中桑名で病没。作風は永徳の豪放さとむしろ対照的で,優美な大和絵的抒情性に富んでいる。勧学院や法然院の襖絵(ふすまえ)は代表作。
→関連項目狩野孝信渡辺了慶

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野光信」の意味・わかりやすい解説

狩野光信
かのうみつのぶ
(1561/65―1608)

桃山後期の画家。狩野永徳(えいとく)の嫡男として狩野宗家を受け継いだ。若年のころから父に従い、安土(あづち)城障壁画(しょうへきが)制作(1576)などに参加。さらに父永徳没後は狩野家の中心的存在として同派を指導。豊臣(とよとみ)秀吉の肥前国(佐賀県)名護屋(なごや)城作事では、その山里書院および御上の襖絵(ふすまえ)を制作、また秀吉亡きあとは徳川政権にも仕え、秀忠(ひでただ)の殿舎に上京(かみぎょう)と内裏(だいり)の絵図(洛中(らくちゅう)図)を描いた。1608年(慶長13)幕府の命で江戸へ下り、帰途桑名で客死した。代表作に園城寺(おんじょうじ)勧学院客殿障壁画(1600)がある。父の巨名に隠れ、ともすれば「下手(へた)右京」と酷評されてきたが、大和絵(やまとえ)に学んだ繊細で優美な彼の画風は、桃山後期の狩野派様式を代表するものとして大いに評価すべきであろう。

[榊原 悟]

『土居次義著『日本美術絵画全集9 狩野永徳・光信』(1981・集英社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野光信」の意味・わかりやすい解説

狩野光信
かのうみつのぶ

[生]永禄4(1561)頃.京都
[没]慶長13(1608).6.4. 桑名
桃山時代の画家。狩野永徳の長男。幼名は四郎次郎,源四郎,のち右京進。織田,豊臣,徳川の3氏に仕え,安土城,肥前名護屋城,二条城,伏見城などの城郭や寺院,禁裏の障壁画を制作。父永徳に比し繊細,優美な画風で,宗秀,山楽らとともに永徳没後の桃山画壇を支えた。遺作は園城寺勧学院『四季花木図』襖絵 (1600) ,法然院『花鳥図』襖絵,相国寺法堂『雲竜図』天井画 (05) ,高台寺霊屋『浜松図』 (05) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野光信」の解説

狩野光信 かのう-みつのぶ

1561/65-1608 織豊-江戸時代前期の画家。
永禄(えいろく)4/8年生まれ。狩野永徳の長男。天正(てんしょう)4年(1576)から父とともに織田信長の安土城の障壁画制作にしたがう。また豊臣秀吉の肥前名護屋城(佐賀県)本丸に襖絵を,徳川秀忠邸(二条城)に洛中洛外図をえがいた。のち幕府関係の絵画制作にたずさわった。慶長13年6月4日死去。44/48歳。通称は右京進。現存作に園城寺勧学院襖絵「花木図」など。

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世界大百科事典(旧版)内の狩野光信の言及

【安土桃山時代美術】より

…弥勒の世の到来と呼ばれた,黄金のはんらんするこの時代のイメージは,障壁画の遺品を通じて十分に受けとめることができる。狩野光信筆の園城(おんじよう)寺勧学院《花木図襖絵》(1600)の魅力は,室外の光を反射して微妙に色合いを変える金箔地の効果にある。金地の静かな輝きを生かした優美な抒情性への志向が父永徳の画風にかわる光信の画の新しい要素とみられる。…

【狩野派】より

…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…

【南蛮屛風】より

…最初の作品の登場は1595年(文禄4)前後であろう。それは秀吉の朝鮮出兵の基地名護屋城の障壁画制作のため九州に下っていた狩野光信一門の画家が,業を終えて帰京したころに当たる。光信一門の画家は九州滞在中に長崎を訪れて南蛮風俗に接し,それが南蛮屛風誕生の契機となったと想像される。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」