二条城(読み)にじょうじょう

精選版 日本国語大辞典 「二条城」の意味・読み・例文・類語

にじょう‐じょう ニデウジャウ【二条城】

[一] 京都市中京区にある平城。慶長七年(一六〇二徳川家康の命で着工。翌年完成。元和九年(一六二三)に廃城となった伏見城の諸構を移築した。京都守護と将軍上洛時の宿所としたもの。慶応三年(一八六七徳川慶喜大政奉還をここで上表した。明治一七年(一八八四二条離宮となったが昭和一四年(一九三九)京都市に下賜。二の丸御殿は近世初期の大名居館の唯一の遺構といわれ、その式台・大広間黒書院白書院などは国宝。二の丸庭園は国特別名勝。国史跡。
[二] 京都市上京区にあった戦国期の城。永祿一二年(一五六九)、織田信長が将軍足利義昭のために築城。天正元年(一五七三)、義昭が河内の若江城に追放された際、信長によって焼き払われた。その後建て直されて二条御所の名で呼ばれていた。旧二条城。二条御所。

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デジタル大辞泉 「二条城」の意味・読み・例文・類語

にじょう‐じょう〔ニデウジヤウ〕【二条城】

京都市中京区にある城。慶長8年(1603)徳川家康が京都の守護および上洛じょうらく時の居城として築城。天守や本丸御殿は焼亡したが、二の丸御殿(国宝)は桃山時代書院造りの形態を伝え、狩野派の画家による障壁画とともに重要な遺構。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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日本歴史地名大系 「二条城」の解説

二条城
にじようじよう

[現在地名]中京区二条城町

堀川ほりかわ(旧堀川小路)の西、押小路おしこうじ(旧押小路)の北に位置し、堀川通に東面して東大手門を開く。二条城町全域にあたり、北は竹屋町たけやまち通、南は押小路通、東は堀川通、西は西にし京式部きようしきぶ町に及び、広さ二六万平方メートル余。周囲を幅一三―一九メートルの堀に囲まれ、水面より約六メートルの石垣がめぐる。

徳川家康によって築かれた城で、明治以降は離宮、昭和一四年(一九三九)京都市に移管。史跡元離宮二条城。

義演准后日記」慶長六年(一六〇一)五月九日条に「伝聞、京都ニ内府屋形立云々、町屋四五千間モノクト云々」とあり、徳川家康は京都屋敷(二条城)新造に際し、敷地予定地内の町屋を立退きさせた。この前年関ヶ原合戦に勝利した家康は、大坂城から伏見城に移り、慶長六年一二月には畿内の大名に二条城の造営費を課し(徳川実紀付録)、同七年五月一日に着工した(慶長見聞書・平安通志)とみられる。平安京の禁苑神泉苑の地を削り、池泉を堀に転用した。総指揮者は板倉勝重(山城志)、作事内容の一部は大工頭の文書(中井家文書)によって詳しく知られる。同八年二月一二日に征夷大将軍に任ぜられた家康は、拝賀の礼を挙行するために三月二一日、竣工なった二条城に入城した(平安通志)。四月一六日には伏見城に帰り、一〇月には江戸へ赴いた。当時の二条城の主な役割は、公武合体の儀礼の場であった。その後、家康は慶長一六年、後陽成帝から後水尾帝への皇位継承に際して入城している。この時、豊臣秀頼を迎えて会見し威を示すところがあり(野志)、以後二条城は政治的性格を強めていく。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二条城」の意味・わかりやすい解説

二条城
にじょうじょう

江戸期の城。京都市中京(なかぎょう)区二条通堀川(ほりかわ)西入ルにある。戦国期にも二条城があり、江戸期の二条城とは位置が異なっている。戦国期の二条城は、1569年(永禄12)織田信長が将軍足利義昭(あしかがよしあき)のために築いたもので、場所は現在の京都御所の西隣、勘解由小路室町(かげゆこうじむろまち)で、北は出水(いずみ)通り(近衛(このえ)大路)、南は椹木(さわらぎ)町通り(中御門(なかみかど)大路)の線、東は烏丸(からすま)通り、西は新町通りの線に囲まれる範囲であったと推定される。義昭は1573年(天正1)追放され、城は信長によって焼き払われた。信長は1576年から新しい築城工事を始め、1579年ごろに完成し、誠仁(さねひと)親王に与えられ、二条御所の名でよばれていた。1582年の本能寺の変のとき、妙覚寺にいた信忠(のぶただ)(信長の長男)が入って防戦したのはこの二条御所のほうであった。場所は押小路室町(おしのこうじむろまち)で、妙覚寺の東隣である。

 江戸期の二条城は、初め徳川家康によって築かれた。名目は上洛(じょうらく)の際の宿所であったが、洛中に築城した信長(二条城・二条御所)、秀吉(聚楽第(じゅらくだい))の先例に倣ったものとみられるし、また将軍になることを予想し、将軍宣下(せんげ)を受ける場所を築いたものということができる。1601年(慶長6)築城の命令が出され、翌年にはほとんどできあがっている。場所は現在の二条城の二の丸部分で、5層の天守閣も築かれていた。ついで1624年(寛永1)3代将軍家光によって拡張工事が始められた。1626年にかけて現在の二条城の二の丸西側、本丸部分が拡張され、現在みられる規模になったのである。このあと、後水尾(ごみずのお)天皇の行幸が行われている。1750年(寛延3)に天守閣が落雷により焼失、1788年(天明8)には本丸御殿も焼失してしまった。現在本丸にある本丸御殿は1896年(明治29)桂宮(かつらのみや)殿舎を移したものである。二の丸御殿は、遠侍(とおざむらい)、車寄(くるまよせ)、式台、大広間、蘇鉄之間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)(小広間)、白書院(御座の間)(以上国宝)、台所、唐門などからなる完全な城郭御殿の遺構であり、そのほかに、東大手門、西大手門、北大手門、隅櫓(すみやぐら)(東南隅櫓、西南隅櫓)などの遺構がある。家光が1634年(寛永11)に上洛してからのちは、14代将軍家茂(いえもち)が上洛するまで歴代の将軍は上洛せず、城代(じょうだい)が置かれていた。1867年(慶応3)この城で15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還の上表を行っている。1884年(明治17)二条離宮となり、1939年(昭和14)京都市に下賜され一般に公開されることになった。城は本丸とそれを取り巻く二の丸だけの単純な縄張りで、居館風城郭の形状を示している。

 二の丸御殿は聚楽第の遺構を移したものとの伝承があったが、修理調査の結果、1624~44年(寛永1~正保1)の大改築の際に築かれたものであることが明らかになった。しかし、唐門、遠侍、式台、大広間、蘇鉄之間、黒書院、白書院の諸建物が連なる形式は、大規模な桃山時代書院造の形態を伝えている。建物の内部には障壁画が多数描かれており、白書院は狩野興以(かのうこうい)、黒書院は狩野尚信(なおのぶ)と、探幽(たんゆう)を含む狩野派の画家によるものである。庭園は特別名勝に指定されており、慶長(けいちょう)の創建時の作庭とみられ、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作ともいわれている。遠州作との確証はないが、江戸時代を通して手が加えられてはいるものの、江戸初期の代表的な庭園であることは間違いない。二条城は1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[小和田哲男]

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改訂新版 世界大百科事典 「二条城」の意味・わかりやすい解説

二条城 (にじょうじょう)

関ヶ原の戦後,徳川家康がそれまでの聚楽屋敷(聚楽第の東にあった)に代わる京都の宿館として築いた城。京都市中京区にある。1601年(慶長6)に敷地を定めて町屋を移転させ,畿内の大名に造営費を課し,翌年に普請を行った。敷地は上京と下京の中間に位置し,方4町の広さをもった。堀川通りに面して東大手門を,北と西にも門を開いた。四周は水堀と石垣で囲い,その中に聚楽屋敷の建物を移築して,五重の天守をあげた。03年2月将軍宣下をうけた家康は,3月21日に入城。以後家康の宿館として11年3月には豊臣秀頼との会見もここで行われ,14,15年の大坂冬の陣・夏の陣の際も,家康はここから(将軍秀忠は伏見城から)出陣した。19年(元和5)娘和子の入内にあたって秀忠は,御殿の北側に女御御殿を造らせた。豊臣氏聚楽第への行幸にならい,二条行幸を仰ぐ準備として,24年(寛永1)から諸大名に課して普請が行われ,西方に敷地が拡張された。その中に水堀で囲われた本丸が造られた。本丸南西隅にできた天守台には,伏見城天守(関ヶ原の戦後,家康が再建)が移された。また新たに二の丸になった旧城部分の御殿も建て替えられ,その池庭の南には行幸御殿が新築された。この際の作事奉行には小堀遠州が任ぜられている。26年9月6日後水尾天皇一行の行幸があり,将軍家光の宿館となった二の丸御殿にもわたって能を見物,大御所秀忠の宿館本丸御殿では天守から京の町を見物した。この盛儀の後,行幸御殿,そして二の丸御殿の大広間,遠侍などの主建物を除いた建物群は解体され,仙洞御所南禅寺,知恩院などへ移築された。本丸の建物はそのままで,34年家光上洛にあたって数寄屋が造られたりしたが,その後将軍の上洛はなく,1750年(寛延3)落雷によって天守を焼失,88年(天明8)京都大火で本丸建物のほとんどすべてを焼失した。

 幕末に至り1866年(慶応2)将軍家茂が上洛して入城,つづいて慶喜も当城で将軍を拝命したが翌年にはここで大政奉還の上表を奉った。明治政府になって太政官代,府庁,ついで二条離宮と変わり,1939年京都市に下賜された。現在本丸には離宮時代の1893年に移築された旧桂宮邸の御殿(幕末の建築)があり,二の丸には寛永行幸当時の大広間,白書院,黒書院,遠侍,式台,台所がのこる。それらは城郭内御殿のほとんど唯一の遺構として重要。ほかにも東大手門,北大手門,東南隅櫓,西南隅櫓,米蔵など23棟がのこり国宝・重要文化財に,二の丸庭園は史跡に指定されている。
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百科事典マイペディア 「二条城」の意味・わかりやすい解説

二条城【にじょうじょう】

京都市中京区二条城町にある平城。徳川家康が上洛の際の居館として造営したもので1603年完成,1626年に後水尾(ごみずのお)天皇行幸(ぎょうこう)のため本丸,二の丸を改造。徳川慶喜が大政奉還を決議した場所として有名。天守は1750年,本丸のすべてと櫓(やぐら)等は1788年に火災で焼失,現在の本丸は旧桂宮御殿を移築したもの。二の丸御殿は式台,遠侍(とおさぶらい),大広間,黒書院,白書院等とともに庭園(特別名勝)をもち,桃山期に発達した殿舎建築の完備した形式をのこし貴重。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目上京・下京京都[市]京都町奉行古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)書院造障壁画徳川秀忠中京[区]

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日本の城がわかる事典 「二条城」の解説

にじょうじょう【二条城】

京都府京都市中京区にあった江戸時代の平城(ひらじろ)。国指定史跡。二の丸御殿が国宝、そのほか22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿の庭園が国の特別名勝に指定されている。また、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一部として登録されている。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。二条城と名づけられる京都市街の城は歴史的に4つあるが、城跡として現存する二条城は、徳川家康により1602年(慶長7)に築城が開始され、翌年に完成したものである。家康は完成間もない二条城で将軍就任の祝賀式を行い、その後、江戸幕府を開いた。以後、歴代の将軍が上洛した際の宿所として利用され、1626年(寛永3)には後水尾天皇による行幸が行われた。このとき、大規模な城の改修が行われ、豪勢な御殿や庭園が造営された。幕末には、第15代将軍の徳川慶喜の大政奉還が行われた。その意味では、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。二条城には伏見城(京都市)から移築した5層の天守があったが落雷により失われ、その後、再建されることはなく、天守台の石垣だけが今日まで残ることになった。城内には、1896年(明治29)に完成した洋風庭園の本丸御殿庭園、小堀遠州が作庭した桃山様式の池泉回遊式庭園である二の丸御殿庭園、1965年(昭和40)につくられた和洋折衷の清流園の3つの庭園がある。JR東海道本線・東海道新幹線京都駅から地下鉄東西線に乗り換え、二条城前駅下車。または京都駅前からバス。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二条城」の意味・わかりやすい解説

二条城
にじょうじょう

京都市中京区にある城郭建築。慶長6 (1601) 年から翌々年の間に,徳川家康の宿舎として造営された。平地に築かれた平城で,周囲に堀をめぐらし,本丸は西側にさらに堀で区画されている。本丸の天守は寛延3 (1750) 年の雷火で,本丸御殿その他の櫓 (やぐら) などは天明の大火 (88) で焼失した。現在の本丸御殿は,旧桂宮御所を明治になってから移したもの。寛永3 (1626) 年に大改築された二の丸御殿 (国宝) は,桃山式の殿舎建築の様式を伝える貴重な遺構で,室内は金碧の障壁画や極彩色の丸彫りの装飾が施されている。将軍の宿所として3代将軍家光の代まで使用され,その後は文久3 (1863) 年に 14代将軍家茂が上洛するまで利用されず,15代将軍慶喜はここで大政奉還を決議した。 1884年二条離宮となり,1939年京都市に下賜され,元離宮二条城として史跡に指定。 (→離宮 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「二条城」の解説

二条城
にじょうじょう

京都市にある近世の平城。織田信長が現在の上京区に築いた城と,徳川家康が現在の中京区に築いた城とある。信長の二条城は1569年(永禄12)足利義昭の居館として築城。73年(天正元)の室町幕府滅亡とともに廃城。家康の二条城は1601年(慶長6)畿内の大名に命じて築城された。このときの規模は現在の東半部。11年にはここで家康と豊臣秀頼の会見が行われた。24年(寛永元)徳川家光により天下普請で拡張され,現在の規模となる。26年後水尾(ごみずのお)天皇の行幸があった。1867年(慶応3)徳川慶喜による大政奉還の舞台となる。寛永以降の城は,本丸・二の丸からなる輪郭式の縄張である。天守は5層の独立式だが,本丸全体が巨大化した連立式とも評価できる。1750年(寛延3)落雷により天守を焼失。現在,二の丸御殿が残り,国宝。全域が国史跡。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「二条城」の解説

二条城
にじょうじょう

京都市中京区にある江戸初期の平城
1603年徳川家康が二条堀河に創建。'26年大整備され,大広間・白書院など大規模な書院造と狩野探幽らの大障壁画を残す。徳川慶喜 (よしのぶ) の大政奉還(1867年)もここで決定された。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

事典・日本の観光資源 「二条城」の解説

二条城

(京都府京都市中京区)
日本100名城」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

国指定史跡ガイド 「二条城」の解説

にじょうじょう【二条城】


⇒旧二条離宮〈二条城〉(きゅうにじょうりきゅう)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の二条城の言及

【江戸時代美術】より


[桃山様式の終結と転換]
 確立したばかりの徳川幕藩体制は,その豊かな財力にものをいわせ,権威の荘厳のため,これまでに増して大規模な城郭や霊廟を営んだ。二条城二の丸御殿(1624‐26)はその代表的な遺構の一つであり,内部を彩る狩野探幽一門の障壁画の巨大な松の枝ぶりが長押(なげし)の上にまで延びて金地に映える壮観は,安土城以来の武将の理想の実現といってよい。だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。…

※「二条城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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