狩野永徳(読み)カノウエイトク

デジタル大辞泉 「狩野永徳」の意味・読み・例文・類語

かのう‐えいとく【狩野永徳】

[1543~1590]安土桃山時代の画家。名は州信くにのぶ。松栄(直信)の子。祖父元信の期待を一身に受け、早くから画才を発揮。織田・豊臣氏に仕え、安土城大坂城聚楽第じゅらくだいなどの障壁画に筆をふるった。豪壮華麗な桃山障壁画様式を確立し、また狩野派全盛の基礎をつくった。

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精選版 日本国語大辞典 「狩野永徳」の意味・読み・例文・類語

かのう‐えいとく【狩野永徳】

安土桃山時代の画家。京都の人。元信の孫。名は州信。織田信長豊臣秀吉に仕え、安土城、大坂城、聚楽第(じゅらくだい)などの障壁画を制作。元信以来の装飾的方向を発展させ、雄大な構図と強烈な色彩により、城郭建築に適合した桃山様式をうちたてた。作品「洛中洛外図屏風」「唐獅子図屏風」など。古永徳。天文一二~天正一八年(一五四三‐九〇

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朝日日本歴史人物事典 「狩野永徳」の解説

狩野永徳

没年:天正18.9.14(1590.10.12)
生年:天文12.1.13(1543.2.16)
桃山時代を代表する画家のひとり。曾祖父正信より続く京都の絵師の家に生まれた。狩野松栄の長男。天文21(1552)年,祖父元信が幼い永徳を引き連れて室町幕府将軍足利義輝への正月参賀に赴いたことが知られ(『言継卿記』),若年より祖父の訓育を受けて狩野家総領としての将来を嘱望されていたものと想像される。三好長慶の菩提を弔って永禄9(1566)年に創建された大徳寺聚光院の障壁画は,父松栄と共に弱冠24歳の永徳が制作に当たったが,方丈の主室である室中は永徳が担当して「四季花鳥図」を描き,翌10年には近衛前久邸の座敷絵制作が記録され(『言継卿記』),活躍の片鱗がうかがえる。30,40歳代の永徳は,織田信長の安土城(1576),豊臣秀吉の大坂城(1585)と聚楽第(1587),正親町院御所(1586),秀吉が生母天瑞院のために大徳寺山内に建立した天瑞寺(1588),京都御所(1590)など,時の権力者の建築物の室内を飾る障壁画をつぎつぎと手がけた。城や御所などの大規模な建築の障壁画制作を一手に請け負うことができた理由は,すでに元信の代に仏画から肖像画,絵巻,水墨画まで,あらゆる画法を修得して幅広い注文に応じられる工房制作の方式が整えられ,これを継承した工房の拡充に永徳が成功したことがあげられる。同時に,元信の画法を基礎に置きながら,変化に富んだ時代と,新興武家などに拡大した受容者層の好みを先取りするスタイルを創り上げたことも大きい。 『本朝画史』(1693)に,武家諸侯が大邸宅を築いて金壁を設けるときは必ず永徳の画を求めた,と記されているように金碧障壁画にその手腕が発揮された。しかも「長さ10,20丈もある松梅や3,4尺もある人物」を粗放な筆法で描き,水墨画の時は藁筆を使う「大画」は新意に満ちた怪々奇々の画風だったと評されている。秀吉以降に造られた大広間の巨大な壁面のために永徳が工夫した画法が,桃山画壇に与えた影響は少なくない。しかし,永徳の代表作となるべき多くの障壁画は建物と運命をともにして今には伝わらず,聚光院の障壁画のほか「唐獅子図屏風」(三の丸尚蔵館蔵),上杉本「洛中洛外図屏風」(米沢市蔵),障屏画の断片を掛幅に改装した「許由巣父図」(東京国立博物館蔵)と「伯夷叔斉図」など,従来から永徳画と考えられてきた遺品は少ない。天正18(1590)年の八条宮智仁親王邸の障壁画と伝承される「檜図屏風」(東京国立博物館蔵)を,その作風から永徳画と判断する説があり,また,南禅寺本坊の障壁画の前身が正親町院御所のそれと推測されるので,この中に永徳画が含まれている可能性もある。永徳の死後は,愛児鶴松の死を悼んだ秀吉が天正19年に創建した祥雲寺の障壁画(現智積院障壁画)の制作が長谷川等伯一派の手に落ち,画壇での地位を一時脅かされたが,狩野家は,その後一族の勢力を結集し,徳川幕府に重用される門派の基礎を確保することに成功した。<参考文献>『障壁画全集 大徳寺真珠庵・聚光院』,土居次義『永徳と山楽』,武田恒夫『日本の美術94号 狩野永徳』(至文堂)

(鈴木廣之)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野永徳」の意味・わかりやすい解説

狩野永徳
かのうえいとく
(1543―1590)

安土(あづち)桃山時代を代表する画家。狩野松栄(しょうえい)直信(なおのぶ)(1519―1592)の長子。名は初め源四郎、のちに州信、永徳はその号である。幼年より祖父元信(もとのぶ)の薫陶を受け、彼の天才はその期待によくこたえた。

 1566年(永禄9)弱冠24歳にして、父直信とともに大徳寺聚光院(じゅこういん)の障壁画(しょうへきが)を制作、『花鳥図』『琴棋書画図(きんきしょがず)』(ともに国宝)を描く。ことに前者は襖(ふすま)16面にわたって、松に鶴(つる)、芦(あし)に雁(がん)、梅に小禽(しょうきん)を近景的構図のうちに展開させたもので、ダイナミックな躍動感にあふれ、この青年画家のほとばしるような若さの発露の表現であるとともに、壮麗な桃山障壁画の開幕を告げる記念碑的大作である。

 そうした永徳の大画面様式は、新時代の覇者織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉の共感をよび、安土城(1576)、伏見城(桃山城、1594)、聚楽第(じゅらくだい)(1587)など、当代を代表する建造物の障壁画はすべて永徳の指導下に制作された。わけても信長が築いた安土城の天守や御殿の障壁画は、『信長公記(しんちょうこうき)』が伝えるように、あらゆる画題、あらゆる技法を駆使したもので、障壁画史上画期的な偉業であった。しかしこれら膨大な作品は建築物と運命をともにしたため、永徳の遺作はその巨名に比し意外に少ない。そのなかで彼の代表作としてあげるべきものには、前記の聚光院襖絵以外に、1574年(天正2)信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』(上杉家、国宝)、『唐獅子(からじし)図屏風』(御物(ぎょぶつ)、国宝)、『許由巣父(きょゆうそうほ)図』(東京国立博物館、重要文化財)がある。南禅寺本坊大方丈の障壁画(重要文化財)や『檜(ひのき)図屏風』(東京国立博物館、国宝)も彼の作である可能性が強い。これらの障屏画(しょうへいが)にみられる永徳の豪壮な様式は、単に狩野派のみならず、その後の桃山画壇に決定的な影響を与えた。天正(てんしょう)18年9月14日没。48歳。さらにいっそうの飛躍が期待されてしかるべき年齢であった。

[榊原 悟]

『土居次義著『日本美術絵画全集9 狩野永徳・光信』(1981・集英社)』『鈴木廣之著『名宝日本の美術17 永徳 等伯』(1983・小学館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「狩野永徳」の意味・わかりやすい解説

狩野永徳 (かのうえいとく)
生没年:1543-90(天文12-天正18)

桃山時代の画家。狩野松栄の長男。幼名は源四郎,後に州信。法眼あるいは法印となる。幼い時から将来を期待され,祖父狩野元信の指導を受けたと思われる。1566年(永禄9)24歳で父とともにあたった大徳寺聚光院の障壁画制作では,最も重要な場所である室中(仏間)を父に代わって担当し,翌年には近衛邸の障壁画をまかされるほどであった。彼の豪放な新様式は織田信長に認められ,76年(天正4)からの安土城建設には天下一の画家として参加した。その際,宗家を弟宗秀に預けて自分は子の光信とともに一家をあげて天守や城内殿舎の障壁画制作に赴き,褒美(ほうび)として300石の知行を受けたといわれる。信長没後は豊臣秀吉に登用され,85年の大坂城,86年の正親町院(おおぎまちいん)御所,87年の聚楽第(じゆらくだい),88年の天瑞寺,90年の新造御所など,秀吉による大建築の障壁画のほとんどすべてを,狩野派工房による集団制作で次々にこなしていった。この活躍によって狩野派が桃山画壇の中心に座ることになった。数多く制作された障壁画のほとんどが失われ,確証ある作品の少ない永徳画の中で,聚光院の《四季花鳥図襖》と上杉家の《洛中洛外図屛風》とが特筆される。《四季花鳥図》は襖16面にわたって梅と松の巨木を中心とした花鳥を描いたもので,画面の枠を突き破るようなその大きさや力強さは,《本朝画史》(1693)に述べられている〈松梅は長さ一,二十丈,あるいは人物は高さ三,四尺〉という永徳の大画の画風そのままである。この大画表現は狩野派だけでなく長谷川等伯や海北友松など桃山画壇全体に影響を及ぼし,桃山花鳥画の基本的構成法となった。大画に対する細画の作品が《洛中洛外図屛風》である。これは京都の人々の生活を細かく描きこんだもので,金地に建物や人物を濃彩で描き,生動感にあふれている。この屛風は1574年に織田信長から上杉謙信に贈られたもので,永徳が桃山期に流行する花鳥と風俗の両画題を初期から手がけていたことを示している。ほかに《唐獅子図屛風》(宮内庁)や《許由・巣父(そうほ)図》(東京国立博物館)が永徳の作品とされ,また作風の上では《檜図屛風》(東京国立博物館)が,記録の上では南禅寺本坊大方丈の障壁画が永徳筆の可能性のあるものとする説がある。
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百科事典マイペディア 「狩野永徳」の意味・わかりやすい解説

狩野永徳【かのうえいとく】

桃山時代の画家。名は州信(くにのぶ)。祖父狩野元信の指導を受け,早くから画才を発揮,織田信長に認められ,1576年の安土築城に際し起用され,一門を率いて天守や御殿の障壁画を制作。のち豊臣秀吉に重用され,大坂城,聚楽第(じゅらくだい),院御所,天瑞寺などの障壁画制作に従事した。作品のほとんどは,建築とともに失われたが,聚光院の襖絵(ふすまえ)《花鳥図・琴棋書画図》は20代前半の作品で,《洛中洛外図屏風》(上杉本)など,筆力の強さと動感に富む表現は,その天才を物語るもの。永徳の素質と,専制君主の美的趣向との結付きによる豪壮闊達(かったつ)な様式は,長谷川,海北ら諸派にも影響を与えて一つの時代様式をつくり,桃山画壇における狩野派の指導的地位を確立させた。
→関連項目海北友松狩野山楽狩野松栄狩野孝信狩野探幽狩野光信

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野永徳」の意味・わかりやすい解説

狩野永徳
かのうえいとく

[生]天文12(1543).1.13. 京都
[没]天正18(1590).9.14. 京都
桃山時代前期の画家。狩野松栄の長子,初名は源四郎,のち州信 (くにのぶ) と改名。永徳は号。祖父元信から直接絵を学び,早くから天分を発揮。永禄9 (1566) 年 24歳で大徳寺聚光院客殿の『四季花鳥図』『琴棋書画図』襖絵 (ともに国宝) を描き,翌 10年から近衛家の座敷絵を弟子とともに制作したことが『言継卿記』より知られる。やがて織田信長の寵遇を得て,安土城の天守および御殿の障壁画制作を狩野一門の画人を率いて担当。安土城は焼失したが,大画面構成による金碧障壁画は,当時の英雄趣味に合致してもてはやされ,桃山絵画の主流となった。信長死後も引続き豊臣秀吉の恩顧を受け,天正 11 (83) 年大坂城,同 14年聚楽第,正親町院御所,同 16年天瑞寺などで次々に障壁画制作を行なったが,同 18年天正内裏に揮毫中,48歳で急逝。これら障壁画は,南禅寺本坊大方丈障壁画中に永徳画遺在の可能性を残すほかはすべて建物とともに失われたが,雄大な永徳画風の一端は『唐獅子図屏風』 (宮内庁三の丸尚蔵館) や『檜図屏風』 (国宝,東京国立博物館) から知られる。これら大画作品のほか『洛中洛外図屏風』 (上杉家) のような細密画や,水墨の『許由巣父図』 (東京国立博物館) も残るが,名声のわりに確実な遺品に乏しい。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「狩野永徳」の解説

狩野永徳
かのうえいとく

1543.1.13~90.9.14

桃山時代の狩野派の画家。松栄(しょうえい)の長男。祖父元信にも直接学ぶ。父とともに制作にあたった大徳寺聚光院方丈障壁画(国宝)は,父松栄の温雅な作風から力動感にあふれた作風への転換をすでに示しており,桃山障壁画の代表作として知られる。豪壮な大画様式は織田信長・豊臣秀吉ら覇者に好まれ,安土城・大坂城・聚楽第(じゅらくてい)などの障壁画制作を次々に任じられたが,48歳で急死。障壁画の大半は建物とともに焼失し,確実な遺品は少ないが,代表作として豪快な筆勢でモチーフを極端に大きく描く「唐獅子図屏風」があり,永徳様式を受け継ぐ作品は多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野永徳」の解説

狩野永徳 かのう-えいとく

1543-1590 織豊時代の画家。
天文(てんぶん)12年1月13日生まれ。狩野松栄の長男。祖父元信にまなぶ。永禄(えいろく)9年大徳寺聚光(じゅこう)院の襖絵(ふすまえ)を制作。さらに織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城,聚楽第などの障壁画を手がける。華麗でダイナミックな表現様式により,狩野派の黄金期をもたらした。天正(てんしょう)18年9月14日死去。48歳。名は州信。通称は源四郎。作品に「洛中洛外図屏風」「許由・巣父図」「唐獅子図屏風」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「狩野永徳」の解説

狩野永徳
かのうえいとく

1543〜90
安土桃山時代の狩野派画家
元信の孫。織田信長・豊臣秀吉に仕え,安土城・聚楽第 (じゆらくだい) ・大坂城などの障壁画に腕をふるった。豪快な金地極彩色の画風を創造し,狩野派全盛の基礎を築いた。代表作に宮内庁蔵『唐獅子図屛風』など。

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367日誕生日大事典 「狩野永徳」の解説

狩野永徳 (かのうえいとく)

生年月日:1543年1月13日
安土桃山時代の画家。狩野派全盛の基礎を築いた
1590年没

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世界大百科事典(旧版)内の狩野永徳の言及

【安土桃山時代美術】より

…染織では,明や琉球との交易がもたらした金襴(きんらん),緞子(どんす),繻珍(しゆちん)など高度な織物の技術に刺激されて,堺や京都で独自に華麗で斬新な意匠がつくり出されたが,それは,室町時代末である。狩野永徳が1566年(永禄9)大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年(天正4)から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。…

【狩野派】より

…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…

※「狩野永徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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