牧野島村(読み)まきのしまむら

日本歴史地名大系 「牧野島村」の解説

牧野島村
まきのしまむら

[現在地名]福井市文京ぶんきよう三―四丁目・大宮おおみや三ー四丁目

福井城下西北、牧野島口の北に続く村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「阿豆布西之郷」(高四九四四・〇三五石)の地に含まれていると思われる。村名は正保郷帳に記され、田方七五六石余・畠方六七石余。福井藩領。「越前古名考」に「麻気神社 吉田郡牧村ニ在スカ」とあって、「延喜式」神名帳に載る足羽郡の「麻気マケノ神社」を当地にあったとするが真偽不明。

寛永年間(一六二四―四四)底喰そこばみ川に架かる福井城下との境の権現ごんげん橋下から観音が拾い上げられ、牧島まきのしま観音堂が建てられて福井藩の祈願所になったが、寛政九年(一七九七)六月一九日の城下の大火類焼、文化二年(一八〇五)に再建のため境内富籤が興行された。


牧野島村
まきのしまむら

[現在地名]松山町中牧田なかまきた

竹田たけだ村の北にあり、東は丘陵地、西は最上川を境に槙島まぎしま(現東田川郡余目町)。真木島・槙ノ島・牧島とも記した。駅馬の牧野があった地として、「延喜式」にみえる東山道飽海駅を当地に比定する説もある。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に「田尻ハ余目城主中棚真木嶋御分地也」とあり、余目あまるめ(現余目町)城主安保太郎の弟次郎領であった。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に牧島村とみえ高八九石余。天保一五年(一八四四)には免四ツ五分、家数七(「高辻并留」松山町資料館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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