片島村(読み)かたしまむら

日本歴史地名大系 「片島村」の解説

片島村
かたしまむら

[現在地名]大野町片島

中野原なかのはる村の東にあり、南東は代三五だいさんご村。正保郷帳には片嶋村とみえ、田高五五石余・畑高七九石余、藤北ふじきた郷に属し、茅山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高二一五石余。寛文一一年(一六七一)には中川勘兵衛がキリシタン捕縛のため来村している(大分県の切支丹史料)。安永七年(一七七八)には片島組に属し、同組大庄屋伝治の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。岡藩小制札場が設置されていた(岡藩御覧帳細注)。文化一揆の際には大庄屋足立幸右衛門宅が打毀されている(「百姓騒動日記」竹田市歴史資料館蔵など)。明治八年(一八七五)田尾たお村・井野いの村・あいさこ村を合併。

杉園すぎぞの池上いけのうえ神社がある。

片島村
かたしまむら

[現在地名]三原市沼田東ぬたひがし町片島

本市ほんいち村の南にあり、標高五〇メートル未満の二分された丘陵南面に広がる中世の干拓地に立地。地名は、周辺が未開発の塩入荒野であった頃、この丘陵が干潟の島であったところから潟島かたしまと称したことに由来。西側丘陵の周囲を末広すえひろ村からの小川が流れ七宝しつぽう村に至る。東に納所のうそ村の飛郷、東南部に安直あじか八ヵ村(納所・本市・七宝・片島・末広・松江・小原・惣定)の割賦田がある。

片島村
かたしまむら

[現在地名]揖保川町片島

二塚ふたつか村の南に位置し、西から北東にかけて養久やく山が連なる。中世は神戸かんべ庄に含まれた。応永二七年(一四二〇)三月二〇日の某院院領年貢・公事書上(尼崎市教育委員会所蔵文書)に「神戸庄片島」とみえ、片島の年貢米五石が瑞岩寺殿安峯(赤松貞範の子顕則)の日霊供料米に充てられており、赤松(春日部)家にかかわる所領であった。しかし文明年間(一四六九―八七)には赤松政則が伊勢貞宗に片島庄を寄進しており(六月一九日「赤松政則書状」蜷川家文書)、この段階では嘉吉の乱後の長禄二年(一四五八)に再興された赤松惣領家領となっている。

片島村
かたしまむら

[現在地名]飯塚市片島一―三丁目など

穂波ほなみ川の左岸に位置し、南は長崎街道沿いに飯塚村。古代穂浪ほなみ堅磐かたしま(和名抄)の遺称地。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文案(「正任記」同月一八日条)によれば、大内氏家臣の黒瀬有真・黒瀬吉清・内海定光・警固屋忠秀はそれぞれ「嘉摩郡片嶋壱町地片嶋四郎跡八町内」を宛行われており、当地の在地領主片島氏の存在も確認される。

片島村
かたしまむら

[現在地名]苅田町上片島かみかたしま下片島しもかたしま

新津あらつ村の南西に位置し、高城たかじよう山南麓に立地。小波瀬おばせ川両岸を中心に集落が形成されている。堅島とも記される(元和八年人畜改帳・正保国絵図など)。幕末期に東側の集落が上片島村、西側の集落が下片島村として分立したようである。元和八年人畜改帳によると高一千二二六石余、家数九六・人数一五八(うち惣庄屋一・百姓一九・名子七)、牛二三・馬九。郷村高帳では高一千四五四石余、うち新田高一七一石余。旧高旧領取調帳では上片島村八三七石余・下片島村五五九石余。上片島の真宗大谷派但信たんしん寺はもとは天台宗であったという。

片島村
かたしまむら

[現在地名]大分市片島

大分川右岸に位置し、肥後街道が北の羽田はだ村から当村を通って津守つもり村に通じる。同村との境辺りを大分川の支流米良めら川が流れる。豊後国弘安図田帳に津守庄一七〇町のうちとして「片島二十六町九段大」とある。地頭の名がみえないが書写の際の記載漏れか。文禄二年(一五九三)の津守之内片島村検地帳(渡辺家文書)によると村位は中、総高四七六石余、段別は田方三二町余・畑方二三町余。綿作が盛んで畠方の二八パーセントにあたる二町五反余で栽培していた。正保郷帳では田高二六九石余・畑高二〇七石余、津守庄に所属。元和九年(一六二三)松平忠直領(岡本家文書)、慶安三年(一六五〇)幕府領となり、天和二年(一六八二)から貞享三年(一六八六)の日田藩領時代を除いて正徳二年(一七一二)まで幕府領(寛文五―六年肥後熊本藩預地)

片島村
かたしまむら

[現在地名]加西市福住町ふくずみちよう

岸呂きしろ村の西に位置し、賀茂かも川流域、福住丘陵の南麓に立地する。西は北山きたやま村、南は東剣坂ひがしけんざか村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳など)、宝永四年(一七〇七)以降の領主の変遷は坂本さかもと村と同じ。正保郷帳では田方二一五石余・畑方一五石余。

片島村
かたしまむら

[現在地名]倉敷市片島町

東・西両高梁たかはし川に囲まれた河内の西部に位置する。元和二年(一六一六)の検地帳(高橋文書)によると高六四〇石余、田四〇町三反余・畑一五町一反余、屋敷一町余。寛永備中国絵図では成羽藩領。正保郷帳では幕府領。以後、幕末まで同領。延宝五年(一六七七)の検地帳(高橋文書)では田畠屋敷七八町一反余、高八二一石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報