片俣村(読み)かたまたむら

日本歴史地名大系 「片俣村」の解説

片俣村
かたまたむら

[現在地名]むつみ村大字片俣

現むつみ村北東端に位置し、北を福田ふくだ(現阿武町)鈴野川すずのがわ(現須佐町)、東を嘉年かね(現阿東町)と接する。四方を山に囲まれ、集落は大山おおやま(阿武川支流)やその支流域などに点在する。奥阿武宰判所属。

近世は片股村とも記され、「注進案」は、「先年阿武郡十八郷の時は小国と申処にて御座候処、高佐郷と嘉年郷と当所を争ひ、何れとも片付不申候ニ付、双方申談にて相撲を取、勝候方へ付可申と約諾の上、両郷より力量の覚あるもの差出し相撲の勝負仕候砌、嘉年郷より出候者小賢き相撲にて、高佐より出候ものゝ小股を捕刎返し勝申候ニ付、当所ハ嘉年郷へ属申候」と当地が嘉年郷に属していたと記す。

片俣村
かたまたむら

[現在地名]大津町矢護川やごがわ

矢護山南西麓から合志こうし台地の基部を西流する矢護川の中流域にあり、中窪田なかくぼた村の西に隣接する。建長二年(一二五〇)六月三日の修理別当大鳥居信全所領注進状案(太宰府神社文書)に「肥後国富納・片俣御灯油納所」とみえ安楽寺の灯油納所であったことがわかる。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では平川組に属し、庄屋一戸のみの村であった。家族は庄屋夫婦に男の子(一五歳以下)一人であるが、名子三人・同女房三人・同男の子三人(一五歳以下)・同親二人の計一四人である。牛馬七、家数一三、屋敷一反五畝余、名子屋敷六畝、高六一石七斗余であるが、三八石程度の入作があったと思われる。その後合志郡大津手永に属し、宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳によれば高九九石八斗余、給知の畑一一町六反余、ほかに新地・永荒の畑二町余、諸開一三町二反余があった。

片俣村
かたまたむら

[現在地名]産山村片俣

東は豊後竹田領、西は小地野しようちの(現波野村)、南は小園おぞの(現波野村)、北は大利おおり村・杓田しやくだ村と接する。北側を片俣川が東流する。正慶元年(一三三二)一一月二二日の阿蘇社造営料鍛冶炭苫未進注文写(阿蘇家文書)に「炭七駄 同苫二帖 ヲウリ カタマタ」とあり、当地と大利の未進分が催促されている。建武元年(一三三四)五月二四日の阿蘇大宮司家雑掌奉書写(同文書)で、当地の代官職が阿蘇品六郎入道に宛行われている。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)に「一所かたまた」とあり、収納使が宿泊し、初穂米納入が免除されたと思われる。

片俣村
かたまたむら

[現在地名]矢板市片俣

幸岡こうおか村の西に位置する。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、明和元年(一七六四)再び宇都宮藩領となり幕末に至る。片又とも記した。慶安郷帳では高一二八石余、田方一〇七石余・畑方二一石余。元禄郷帳では高二〇九石余。元禄三年(一六九〇)の人数一一五(「玉生筋宗旨改人数帳」石下義一文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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