瀬高庄(読み)せたかのしよう

日本歴史地名大系 「瀬高庄」の解説

瀬高庄
せたかのしよう

山門郡内矢部やべ川流域に成立した庄園。立庄の時期、事情などは不詳だが、年未詳後欠の後鳥羽院庁下文案(鷹尾神社文書/筑後鷹尾文書)によると、保安三年(一一二二)大宰権帥に任命された藤原俊忠(御子左家)の家領で、官省符庄であったという。その後俊忠から徳大寺公能の室となった娘の豪子(三品)に譲られて徳大寺家領となり、その孫公継(右大将)に伝えられた。この間、本家職は徳大寺入道左大臣(実定か)から一族出身の待賢門院(藤原璋子・鳥羽天皇中宮)に寄進された。さらに待賢門院からその御願寺で大治三年(一一二八)落慶の円勝えんしよう(現京都市左京区)に寄進され、その後、後白河院領に組込まれたようである。なお前掲院庁下文案によれば瀬高庄は大治六年に上・下両庄に分割された。同年以後の史料には瀬高上庄・瀬高下庄のほかに瀬高庄と記されるものも多いが、実際には瀬高上庄か瀬高下庄のどちらか一方をさすと考えられる。

〔瀬高下庄〕

 瀬高庄の分割後、領家職が徳大寺家に伝領された庄園。庄域は矢部川下流域の現瀬高町・三橋みつはし町・大和やまと町・柳川市にまたがっていたとみられるが、散在庄園であったと考えられる。寿永元年(一一八二)八月一六日付の瀬高下庄公文所下文写(鷹尾家文書/平安遺文八)によると、下庄鎮守であった高良こうら別宮鷹尾たかお(現大和町)への饗膳酒肴調進の名として吉里よしさと(現瀬高町河内字吉里か)稲留いなどみ(現三橋町江曲字稲富か)、行武(現瀬高町下庄字生竹か)重富しげとみ(現山川町重富か)、小熊丸、太郎丸たろうまる(現三橋町久末字太郎丸・瀬高町高柳字太郎丸、大和町鷹尾字太郎丸・同町塩塚字太郎丸か)、楽定(現瀬高町松田字楽十か)、弥乙丸・小太郎丸、乙丸おとまる(現瀬高町上庄字乙丸・大和町塩塚字乙丸・三橋町久末字音丸か)、久富(現三橋町正行字久富か)、友吉、有富ありどめ(現瀬高町大江字有富か)、吉成、吉富よしどみ(現三橋町新村字吉富・柳川市吉富か)、新名熊丸(現三橋町棚町字熊丸か)枝光えだみつ(現同町枝光・久末の小名枝光か)北鴨住きたかもすみ(現同町棚町字鴨角か)、元吉成・小犬丸・小犬男丸がみえ、そのほかにも金栗かなくり(現瀬高町)など数名があったことが確認できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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